第二回公判 自己弁論の原稿

9月29日の法定で検察官が示した証拠写真の中に私がインド・ヒマラヤより持ち帰った石がございます。ルビー、サファイヤ、エメラルド、アクアマリン、アメジスト、ガーネット、トパーズ、キャッツアイ、ヒスイ、瑪瑙、真珠そして水晶等ですがその価値はそれら二百五十点ほどの石に十数枚の細密画を合わせて二千ドルとなります。日本円に換算しますなら二十数万円というところですが日本とインドは物価が違うためインドの二千ドルは日本の二十数万円の価値ではありません。インドの首都デリーにあるエンポリウムと呼ばれる政府直営によるみやげ物店で働く人の給料が一ヶ月4000ルピー、米ドルに換算して約100ドルと聞いております。つまり、インドの二千ドルは20か月分の給料に相当するといえるでしょう。

ところで私はその二千ドルを払い、石を持ち帰ったのではありません。私にはそんなお金はありませんでしたから、このことは私に二千ドル相当分の石を預けた相手が承知してのことです。さらに私が日本では住所不定であり定職を持っていないこと、そしてまた資産と呼べるものを何もないことを承知しております。その上で私に二千ドル分を預けてくれました。その意味を考えていただけますでしょうか。私のどこをとって見ても有形的な保証はないだろうと思うのですが、にもかかわらずこの二千ドル分の石に見られるようにインド・ヒマラヤの村において、私少々大きめの信頼をもらっております。その信頼は私の内面より生まれていることをご了解願えるでしょうか。

チャラスと呼んでいる大麻樹脂はその私を補助するものです。チャラスを使っていない私はごらんの通りです。たいした者でもございませんが、それでもチャラスが入ると私の内面が非常に強化されてまいります。そのとき私を見る人の眼が違ってくるようです。人の違いがはっきりしてまいります。私に対しいわれのない非難を送る人がいて、また逆に親愛を寄せてくる人がいます。その違いが非常にはっきりしてまいります。だから、私はチャラスを使うことで人を見分け、付き合う相手を選ぶことができます。

これまで私は意図的に日本にチャラスを持ち帰ったことはありません。その必要を感じなかったからです。私のまわりにいる人たちがお互いに親愛を感じられる者たちだけならば嗜好品としてチャラスを楽しむことができるのですが、まわりにいる人たちが必ずしも私にとって好ましい人たちであるとは限りません。その場合私の生活が難しくなります。だから日本ではこの十年、チャラスを使うことなく過ごしてきましたが今回は自分が主になる仕事をしたいと思い、そのつもりで日本に来ました。

私のやりたい仕事には少々微妙なところがあり人を選ばなくてはなりません。チャラスは僕の補佐をしてくれる物です。だから私にはチャラスが必要なのです。

検察官より証拠として提出されております通告書に見られますように私は過去に一度大麻所持による罰金一万円の処分を受けておりますが、その判決文にあたる内容を良く見返していただけますでしょうか。大麻所持の理由として自用のため、自分が用いるためとありますが、それは間違いであることをご了解いただけるでしょうか。

9月29日の法定でも申しあげましたように0.71gのそれはゴミであり使用できません。私はその当時、税関でそのことを言ったことを憶えております。必要ならば成田税関で当時の私の供述書をお確かめください。なお、その処分は簡易裁判所によるもので私は法廷には出ておりません。通告書を受け取ったとき私は北海道でアルバイトの仕事をしていました。その処分がおかしいことはその場で気づきましたがそれを不服として争うことは私の不利益を大きくしてしまいます。それで黙って一万円払ったのですが、裁判官よろしいでしょうか、いうならばその通告書は過去、裁判所の裁きにおいて嘘があったことを証明する物です。

いまさらその処分について不服を訴えるつもりはございませんが、この法廷ではそのようなことのないようにしていただきたいと願います。

私はこの裁判の始まりに表明したことがございました。

   「自分が大麻を吸うことを悪いとは思っていないこと」、

   「その私を罰するなら何が悪いのかを明らかにしてほしいということ」

です。

しかしながら、審理を思い返すと私は追及された覚えがありません。大麻を吸うことは私の精神に悪い影響を与えるとも、あるいは大麻を吸う私の存在が社会に悪い影響を与えるとも追及された覚えはありません。何も明らかにされておりません。にもかかわらず、検察官は私に非難の論告をしておりました。

裁判官にお願いします。嘘を排除してください。そして私の何が悪いのかを明らかにする裁判をお願いします。


大原さん、第二回公判は10月29日でした。まわりの人たちの予想ではここで判決が出るだろうと思われていました。僕としてはそんなに簡単に終わってほしくはないんですが、肝心な審理が第一回目で終わってしまっていますから、いかんともしがたいところです。で、二回目の公判では弁護人の最終弁論と僕の最終弁論となりました。

ところで、覚えていることがあるんだ。僕の自己弁論で通告書に触れたときです、

「その判決文にあたる内容を良く見返していただけるでしょうか。大麻所持の理由として自用のため、自分が用いるためとありますが、それが間違いであることをご了解いただけるでしょうか。9月29日の法廷で申しましたように、0.71gのそれは・・・・・」

裁判官はそのとき自分の机の上の書類を取りあげ確認する素振りをしたんだ。覚えているんだよ、確かにそうした。当然あれは僕の通告書だろう、まさか被告人が通告書の話をしているときにルビーやサファイアの写真を取り出して確認したりはしないからさ。

 大原さん、何が言いたいのかというと通告書を確かめる素振りイコール、少なくともそのとき、僕の言葉が彼の耳には届いたということなんだ。勿論、彼がそれをどのようにとらえたかは僕にはわからないけれど、僕の自己弁論の後、彼はこう言った。

「次の公判は11月の・・・・・・・・・・・・・・・・・」。

裁判を見慣れている人たちの予想に反して第三回公判がもたれることとなった。11月の19日でした。その日は裁判官の判決だけがありました。全てを覚えてはいないけど、こんな言葉があったのは確かに覚えている。

「被告人を懲役二年六月、ただし、その刑の執行を四年間猶予する。・・・・・・・・・・

・     ・・・・・・・・・・・・世界的に麻薬撲滅が叫ばれる中で・・・・・・・・・・・・

・・・・被告人はまるで反省の色がなく・・・・・・・・本来なら実刑でも・・・・・・・

・     ・・・・・・・・・・・・・・・・この判決に不服ならば控訴することができます」。

大原さん、もしそれが実刑判決だったら、僕は間違いなく控訴しています。でも、執行猶予になったから、まあいいやで、僕は控訴しなかったんじゃありません。お金がなかったからです。裁判費用ではありません、それ以前のお金です。実刑になっていれば寝泊りや飲み食いにお金がなくても大丈夫だったんですが、でも外に出るとなるとそういう訳にもいきませんから。

さて、この裁判官なんですけど、彼は検察官の場合と違って僕の言葉の趣旨に気づかなかったとは考えにくいんです。彼には吟味する時間がたっぷりあったはずだし、また、彼自身の言動からもその姿勢がうかがえます。

「次の公判は11月の・・・・・・・・・・・・・・」。

 第二回公判は弁護人と僕の弁論だけ、時間はたっぷり残っていたんです。にもかかわらず彼は判決を第三回公判に先延ばししました。ゆえに、彼は僕の言葉を吟味した上でこの判決を出したと考えられます。

 大原さん、僕は納得していないんですよ、僕が納得しないままに前科者の肩書きがこの先僕についていきます。納得できない僕にとってはこれは名誉毀損の何物でもありません。

 ところで、刑罰には禁固刑や懲役刑そして死刑がありますよね、それは国家権力の下に合法的に行われます。しかしながら、その判決を納得しない者にとっては合法も非合法もありませんよ、それは単に監禁であり強制労働でありそして殺人の意味しかないでしょう。

どのように、そしてどのような判決を下すかにより被告人のその後の人生は大きく左右されるでしょう。さらに社会に対する影響が予想されます。裁判官の責任は非常に重大です。

 僕はずっと考えていたんですよ、自分が逮捕されるずっと前から考えてたんです。法というものそして裁判、法廷はどのように進行させればいいのだろうか? 考えれば考えるほどに裁判官の重責を感じていたんですよ、そしてまた考えた。

   「判決を出す裁判官は一身にその重責を背負わなければいけないのか?」

「違う!」

というのが僕に導き出された答でした。少なくとも裁判官と同等の責任を負わなければならない者がいるんです。裁判官は被告人に対して個人的な恨みつらみがありそれによって判決を出している訳ではないでしょう、裁判官は裁判官であることを自らの職として判決を出す。それが仕事なんです。そして、だから裁判官には雇い主がいるんです。雇い主よりその人格、見地、洞察力等を認められその職にあるんでしょう、裁判官のその雇い主は僕であるに過ぎないんです。ゆえに裁判官の重責の少なくとも半分は雇い主が負うべきものと考えられます。

 大原さん僕はこの自分の物語をマスメディアに流すことで問いたいんだ。裁判官の雇い主、僕の主に問いたいんだよ。

あなたはこの裁判をどのように思われますか?

それが良心と法律に基づく裁判であったとお考えですか?

その裁判で真実が明らかになったと認められるのですか?

主がどう応えるのか、それこそが僕が知りたい、確かめたいことなんだよ。主の心に何があるのかだよね、僕の心にあるものと共通するなら幸いなんだけど。そうそう、第一回公判の後だった。僕はこんな言葉を聞いた。

「私に言わせれば、あんなのろくな裁判じゃ、ねえ」。

 第一回公判の始まりで僕はけつまずきしどろもどろになってしまいました。でも、そのおかげでかえって開き直れたのかもしれません。いつも動いている思考が消えていき僕の頭は空っぽになっていったんだ。空っぽの僕は自分の思考に邪魔されずに法廷を見ることができました。弁護人や検察官そして裁判官の言葉に反応しながら法廷を見ていました。

「 洞察力か 」

僕の手紙を見たらしい刑事がそう言っていましたが法廷での全ての言動を覚えている訳では勿論ありません。それは僕には不可能です。でも自分の思考に邪魔されない空っぽの僕はそのとき心に引っかかってくる言動は全て覚えるようです。頭ではなく心が覚えるのですね。

 だから事実関係についてすでに僕が認めていることを長々と語っていた検察官の言葉などは右から左と消えています。でも「被告にはまるで反省の色がなく・・・」等の僕の心にひっかかる言葉は覚えているんです。他にもあります、「私は自分が悪いと思っていません」と表明した後に裁判官席の隣下方に座っていた司法修習生の一人がしばらくの間、僕を睨み据えていたこととか、検察官が被告人席に座っていた僕を一度も見なかったこととか、弁護人と僕の大麻についての応答の際、裁判官があらぬ方向を見ていたこととかは良く覚えているんだ。「どこを見ているんだ、こいつは、」とね、それらについての思考は後から始まります。

 大原さん、空っぽの頭の僕は心に引っかかる言葉を覚えています。

 ところで、さっき見てもらった公判記録には僕の覚えている言動がないんだ。僕の心に引っかかり、これは大事と覚えている言動が記録されてないんだ。

 大原さん、また手紙を見てもらえますか。検察庁宛の手紙と前後して出したものです。宛先は千葉地方裁判所です。


千葉地方裁判所への手紙 98年12月

私は千葉地方裁判所に自信の公判記録の交付をお願いしている者です。11月28日に私の弁護人であった者より記録が私の手元に送られてきましたが、公判記録はその一部があるだけでした。

この調書は第一回公判と一体となるものである

と明示された被告人供述書なるものがございましたが、それは残念ながら私の憶えている記憶と一致しておりません。足りないものがあります。人定尋問の後だったでしょうか、裁判官がこのように言った筈です。

  「被告人は黙秘権があります。喋りたくなければ喋らなくても構いません。裁判の最初から最後まで黙っていることもできます。法廷で喋ったことは記録され、それは証拠となります」。

そして検察官の冒頭陳述の後、私はこのようなことを言った筈です。

  「事実関係には間違いはないと思いますが、だからといって私は自分が大麻を吸うことを悪いとは思っておりません。私を罰するというのならば、なぜ、どのように悪いのかを自分自身に納得できるよう明らかにしていただけますか」。

どちらも記録にありません。

「大麻をご存知ですか?」

「被告人は質問に答えるだけにしてください」。

質問に対して裁判官からそう申し渡されたのですが、そのことも記録にありません。そして裁判官と弁護人のこんなやり取りも記録から抜け落ちています。

      「その質問は先程ありましたので弁護人は質問をかえてください」。

   「いえ、これはさっきの質問とは趣旨の違うものなんですが」。

「それはもう何度も聞いておりますので質問をかえてください」。

  「これは趣旨の違う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」。

弁護人は言葉が続かず質問を替えることを余儀なくされたと憶えております。また、第一回公判の終わりに弁護人より裁判官にこんな言葉がありました。

   「私も最初は普通の事件と思っていたのですが被告人に会ってその意思を確かめるとそれはちょっと違って難しく、まだ被告人と会ってより日も浅く、しっかりした用意ができていません。私の弁論はもう少し待って頂きたいのですが」。

私のところに届けられた記録にはそれらの言葉がありません。

 また、被告人供述書と名づけられたそれは要約されておりますね。綺麗にまとめ上げられているようですが、私の意思に拠らない物です。私はそれを望んでおらず、法廷での実際の私の言葉には、あの、その、ええ、といった洗練されていない生身の私がいたはずです。

 そしてもうひとつ、私は被告人であった私の言葉だけではなく、検察官、弁護人、さらに裁判官、その法廷で出された全ての言葉の記録がほしいのです。なんとなれば、私が見たいのは裁判所による要約ではなく、法廷での裁判の進行状況そのものだからです。

 この先、私は千葉地方裁判所 山田和夫 判事による有罪判決を背負い生きることになります。運命ならば受け入れましょう。それでも、「私は私」です。私は六法全書に従って生きている訳ではありません。私は自分の意思により自分の言動を行うのです。法律で規制されているからという理由ではなく自分自身の意思により、これはしてはいけないと感じるとき自らにより止めるのです。その私の言動はときに法律、あるいは、世間の常識と合致しないこともあるかもしれません。だから隠して持って来たのです。大麻その物を悪いとは思っておりませんが、法規制から自分を守るためそうしたのです。その大麻を見つけられてよりの私には嘘も隠し事もございません。自分の意思のままを言動しております。その私を検察官とそして裁判官がこう語ったのは間違いではありません。

「被告人はまるで反省の色がなく・・・・・・・・・・・。」

その通りです。私は反省しておりません。

なぜなら、私は悪いと思っていないからです。このことは裁判の始まりから表明していることです。そしてもうひとつ、なぜ悪いのかを明らかにしてくださいと申し上げた私の言葉はどう扱われたのでしょうか。私は少しも納得しておりません。法廷における裁判官には明らかにしようとする姿勢が感じられませんでした。このことは公判記録を確かめることでわかる筈たったのですが。

「法廷で喋ったことは記録され、それは証拠となります」。

と裁判官自らが語ったようにそれは被告人である私にとっても証拠になるのです。

 被告人供述調書には裁判所書記官 石井 と見える印があります。石井さんでよろしいですね、石井さんが記録した法廷で語られた全ての言葉をお送りください。もちろん意図的な証拠隠滅や捏造等はないものと信じておりますが、無意識のうちにもそれが行われると困ります。もし、聞き漏らしあるいは聞き取れなかった等の事情で再現できない部分がありましたらその事情を記した上でお送りくださるようお願いします。余談ではございますが調書の中で私の言葉として記録されているそれにグッドトリック、バットトッリクというのがありましたが、それはgood trip グッドトッリプ、bad trip バッドトリップです。それにストームとありましたがそれはstone ストーンです。どうでもいいようなことですがその間違いを見ることで「あなた達は大麻を良く知らないらしい」とわかりました。それらの言葉は大麻を良く知っている者には常識のようなものですから。聞き間違えたのは私の発音が悪かったのでしょう。ごめんなさいね。

 なお、公判記録は弁護人を介してではなく、千葉地方裁判所としてお送りくださいますようお願いいたします。

 それが筋ではないかと思いますので。

送り先は前回の手紙にも書いたものと同じ場所です。

和歌山市        xxxxx 方      山 崎 一 夫

 大原さん、見てもらった手紙でわかるように、もう一度公判記録を請求したのです。ですが何も送られてきませんでした。何もです、何もこないのです。返事そのものがこないのです。いつまで待っても来ない。どうしてだろう、手紙が届かなかったのかは良く分かりません。検察庁に出した手紙は「届いてましたよ」とフセさんに聞いたのですがね、多分、良くわからないのですけど、僕は生活費を稼ぐ仕事をしなければならないし、・・・。

 さて、大原さん、ちょっとイメージしてくれませんでしょうか。

男の子が二人います。兄弟です。兄の方が弟を蹴飛ばして泣かしてしまいました。それを見つけたお母さんは追及します。 

「あんた、お兄ちゃんなのになんなの! 謝りや!」

責められるお兄ちゃんを見て、お姉ちゃんが弁護に出ました。

「お兄ちゃんの言い分も聞いてあげな、あかんの違う」。

「僕、悪くないもん」。

「そうじゃなくて・・・」とお姉ちゃんは弁護を続けようとしたのですがお母さんの論告にそれはかき消されてしまいました。

 「ほら見てみ、この子、全然反省してないわ、謝るならこっちも考えるのにこの態度やて、あんたどう思う?」

とお母さんはお父さんの意見を求めます。お父さんは判決を出しました。

   「学校の先生は暴力あかん言うてるやろ、隣のおじさんも三軒先のおばさんもみんなそう言うてんのに、おまえは暴力を振るうて全然反省してない、反省するまで押入れに入っとれ!」。

 大原さん、バカバカしい家庭内裁判をイメージさせてしまいましたが、現実の法廷で同じようなことが行われ、同じような判決が出されたんだよ。

   「世界的に麻薬撲滅が叫ばれる中で、被告人はまるで反省の色がなく・・・・」。

そんなものを判決理由にして恥ずかしくないのか? と思ってしまうんですけど、ことによると当人は気づいてない場合があるんです、その可能性があるんです。

 大原さん、イメージしてもらった家庭内裁判では審理が尽くされていませんから、事の良し悪しはわかりませんが、もし仮に、その子に非があったにしても、そのお父ちゃんやそのお母ちゃんのやり方ではその子の非を正すことはできません。なぜならその子の意思を無視しているからです。

   「ひでえのがいてさ、裁判官が判決を出したら、食って掛かった奴がいるんだよ。  なんだおまえ!どこ見てやがんだ、この野郎!ってさ、それで裁判官怒っちゃってさ、閉廷!!で終わり」。

 留置場での雑談でそんな言葉を聞いたんだけどね、思いましたよ、まったく、ひどい裁判もあるもんだなって。その雑談からだけでは細かいことは分かりませんから被告人がなぜ怒るのかはわからない。それでもひとつだけ分かることがあります。その被告人は納得しなかったって事です。そして僕はまた分からない。そんなことぐらい裁判の進行状況から察することができなかったのか? それとも、分かっていて被告人の意思を無視したのか。でも、それじゃ駄目、それじゃ駄目なんだ。それはとりあえず邪魔者を排除するということでしかない。それではこの世の中はちっとも良くならない、死刑にでもしない限り。いずれ彼らは社会に戻ってくる、形を変えておそらく狡賢くなって戻ってくる。そして人は死んだって終わらないと考える僕にとっては死刑だって同じことなんだ。根を耕さなければ、この世はちっとも良くなっていかない。

 大原さん、罪って何だと思いますか? 手元の国語辞典をみても僕を納得させる定義ではありませんでした。で、ちょっと、ここで僕自身が納得する罪の定義を残しておきます。

罪とは意思を無視する行為

他人の意思を無視する行為は無論のこと、自分の意思を無視する行為も含めて罪としておきます。例えば、自殺とかね、当人は死にたいと思っている、少なくてもそのつもりでいる。でも本当にそうなのか、本当なのか? けっこう難しいところがあります。だから真理を追究しなければなりません。いずれにしろ犯罪と呼ばれるものも意思を無視する行為が根にあります。

 僕は人間というのはみんな罪人なんだと思っています。僕らは自意識が芽生えてより罪を重ねることで成長するんだと思っています。僕の心にたくさんの罪が溜まっています。これまでにからんだ人や動物などを思い返すと悔いの念でいっぱいになります。

「人生に消しゴムがあればいいのにね」。

2000年の3月でした。旅先で知り合った人に不意にそう言われましてね、僕は感じるものがあってこんな会話に続きました。

      「人生に消しゴムはないんです。あれば楽になれるのかもしれないけど、それはないんだ。でも、だから自分の心に負うものがあるから僕らは自分を軌道修正することができるんだよ」。

      「軌道修正してまっすぐになったつもりが、また間違っていることに気づいて、また修正してって、そういうことを繰り返しながら生きていく、それが人生ってもんなんでしょうねえ」。

抽象的な会話だったんだけど通じ合える人はいるもんだ。


さて、大原さん、僕らはそれぞれに自分の意思を持っています。だから僕らにはそれぞれ自分の人生があるでしょう。そして罪の意識を感じることで自分を感じることで自分を省みてそれぞれ向上していくんでしょう。

 意思を持たない人間なんていないだろうと思っています。罪の意識を感じない人間なんていないだろうと考えています。ところが世の中を見ていると、ときどき疑問を感じてしまうことがあります。

この人、自分に罪の意識を感じていないのだろうか?

なぜだろう、考える僕にひとつの推測があります。

自分自身の意志に拠って生きていないからだ。

ここで法治についての話を交えていきます。

法治−法に下づいて政治を行うことと国語辞典に出ていました。日本は法治国家です。そして世界にはいろいろな法治国家があります。そして僕は人がどのように法治の意味を捉えているのかわからない。8月の泉君の手紙でシンガポールの話をしましたね、大嫌いなんだ。女王陛下の意思よりも法のほうが大事なのか。細部がわからないから、嫌いという僕の主観的な言い方にとどめておくけど、とどのつまり、法治といってもその法を使って治める誰かがいるだろう、その誰かの心に問いたいんだ。

どういうつもりなの?

止めてくれという声を無視してあなたは人を殺したんだ。平気なの?

 大原さん、僕には分からない。どっちなんだろう? 法治というものをどんどん推し進めることで人の意思が全く入る余地のない法律その物が人を支配するようになると想像できなくはない。もし、シンガポールがそのような国であったなら、その誰かに罪はありません。だってその誰かには意思がないんですから、法が全てですから。行ったこともない異国よりは自分の国です、

日本はどっちなんだ。

人がその自らの意思によって生きていないとき、では一体、その人は何によって自分を認め、支えているんだろうか。すごく簡単に想像できるものが二つある。ひとつは社会通念上の善悪です。法律もここに含まれます。

私は皆が認めるだけの善いことをしています。だから善い人です。

と、もうひとつは社会通念上の地位です。学歴もここに含まれます。

私は皆が認めるこれだけの地位にいます。だから私は立派です。

いずれにせよ、それは社会から認めてもらうことで自分を支えているんです。そのとき罪の意識は現われません。自らの意思によっていないのですから自分を省みることもないでしょう。その人はもう人間として成長しなくなります。

 それでも、大原さん、僕は思うよ、子供のときは? 私生活には何もないのか? 罪の意識を感じたことがない人などいない筈だと思っているんだよ。ただ、自分を知らないだけだ、自分を忘れているんだと考えているんだ。自分を忘れている人に思い出させてあげたいとこの頃思うようになりました。

 大原さん、僕はリターンマッチをやりたいんです。1998年の判決に僕は納得していません。あの裁判は単に法律と社会通念でのみ裁かれています。最も大事な良心が抜けています。だから真実が追究されない。真実はいつだってひとつ。僕はそう信じる者です。真実を明らかにすることで納得が起こり、和解が始まるんです。その上で刑を勤める必要があると認められるのなら、しかるところへ行くんです。真実はいつだってひとつになります。

 大原さん、リターンマッチをやりたいんです。そうすることで司法に関わる人たちの姿勢を明らかにしたいんです。そして世の中の人たちの意思を問いたいんです。けれどリターンマッチの間、僕は世の中の人たちに応えることができないでしょう。そこで大原さんに僕の代理人をしてもらいたいのですよ。

「へえ、珍しいね、やる気のある人みたいだね」。

98年、留置場でそんな言葉が出ました。僕の弁護人が公判が始まる前に二度面会に来たことに対する声でした。たいていの弁護人は公判までに一度来て、それで終わりなんだそうです。特に国選の場合はね。

「え? わし、あ、わし70歳です。いや、お恥ずかしい」。

二度目の面会のとき年令を聞くと、何か照れたような顔でそう応えてくれました。おそらく、それまで仕事の話をしていて不意に自分の事を聞かれたので虚を突かれたんでしょうね、何が恥ずかしいのか僕には分かりませんが、この人に感じるものがありました。

「わしにも信念がありますので、それを曲げてまでの弁護はできませんよ」。

十分です。それで十分なんです。

「裁判は良心と法律、この二つでやることになってるから」、

とその自らの言葉どおり彼の法廷での言動に自身の良心に反する嘘はなかったと憶えています。

 大原さん、確かなことは知らないけど俗に言う悪徳弁護士、そんな者が本当にいたなら、そして法廷に現われたなら、即座に追い出すべきと考えています。検察官であれ、弁護人であれ、その言動に嘘があっては被告人の嘘も真実も立証できるはずがありません。裁判官には嘘を見抜く能力が必要です。

 大原さんに僕の言葉をオウム返しに喋ってほしいなどと少しも考えていません。また、大原さんがそんなことのできるタイプでないこともとても良く知っているつもりです。何しろ長い付き合いですから、何も構えなくていいんです。そのままの大原さんでいてくれれば十分です。金銭的な報酬は何も約束できません。だからそれによって縛ることもできません。大原さんの好きに言動してください。僕の悪口を言うのも自由です。

 僕の言葉がマスメディアに勤める人たちに届き、そして世の中の人たちの心に届くようなら、大原さんに聞きたいという人たちが現われるでしょう。僕の代理人をお願いできますか?

 マスメディアの皆様に申し上げます。

これまで見て頂きました物語の事実関係につきましては実名で登場している新東京空港署、千葉地方検察庁そして千葉地方裁判所等で調査、確認して頂けますでしょうか。

なお、物語の内容につきましては皆様ご自身の意思と良心によって確認して頂きたいと願います。そして、私の意思をご理解くださるなら幸いです。

住所不定で定職を持っていない世間からはみだし者である私には少々生意気すぎるだろうことを承知の上でこう言います。

ちょっと、世の中変えましょう、

あなた達の力が必要です。協力してください。

と、これで諦めればいいのですが、そうなら私も楽なんですが、何しろあなた達に無視されると何の成果も得られずに、ただ五年、六年の刑務所暮らしをするだけということになるかもしれない。あなた達の協力を必要とする私としては、あんまりね、あなた達を敵に回すようなことは言いたくないんだけどね、これ私の性分です。できればあなた達の機嫌をとっておきたい。そうなんですよ、それはそうなんですが、どうもいけませんね、私の性分です。

 私はあなた達マスコミに対して感じている疑問があるんです。そしてどうしてもあなた達に言っておきたいことがあります。以下、あなた達にとって耳が痛いかもしれない話となりますが、ご一読くださいますなら幸いです。

 98年 私の事件は看守さんたちの注目を集めましたが同時期にもうひとつ注目される事件がありました。それは同じ留置場にいる私の眼や耳に届いてきます。

「どうすればいいだろう?」

そして私は朝日新聞社と週刊現代に宛てて手紙を書いたんです。


朝日新聞社 週刊現代への手紙 98年11月

私は7月半ばより新東京国際空港署の留置場にいる者です。この夏、留置場は密入国してきた中国人であふれていました。中国語が房内を飛び交っていました。言葉のわからない私はただ見ているだけでしたが、看守さんたちの雑談でこんな言葉がありました。

「彼らはね、親は百貨店の社長だとか親類は医者だとか、まあ、話半分かもしれないにしてもそんなのばっかりなんだよ。密航してくるにも金が必要だから金のない人は来れないみたいで、・・・・・・・・・・・・・・・」

この夏の裁判所は彼ら中国人が多かったせいでずいぶん込んでいたようです。密入国の彼らは出管法で裁かれ強制送還になると聞いています。私と同房だったイエンは裁判の前日にえらく饒舌になりました。いい加減にしてくれよと思うほどうるさかったんですが、その私にまで喋りかけてきました。

「カエル ネ カエル 中国カエル」

どうも帰るのが嬉しくてたまらないようです。それは彼だけでなく留置場にいる中国人は皆同じ精神状態のようでした。この夏、留置場はにぎやかでした。ところが、そこに毛色の違う中国人が一人入ってきました。そして最初に雑談でこんな言葉を聞きました。

「よく五体満足だったよな、空の上はマイナス何十度だろ、

凍傷で手足が千切れていてもおかしくないだろ」。

「命懸けじゃんか、もう、まるでマンガの世界だよね。車輪にぶら下がってそのまま格納庫に隠れていたんだもんね」。

私がその男を見たのは数日後、留置場の「運動」のときでした。やさしい顔に見えました。物静かな若者でした。ワンと呼ばれていました。この男が命懸けの冒険、人は見かけに寄らないものです。

 後日、ワンのいる房で騒ぎがあり看守さんたちが集まって来ました。けれども誰も中国語を分からず、私の房にいた中国語と英語を話せる台湾人のチャンが通訳として借り出されていきました。通訳を終えたチャンが言いました。

「CRAZY! he use coppsticks like this.」

チャンは箸を自分の喉に当てて突く素振りをして見せました。数十分後、チャンは通訳となだめ役を期待されワンと同じ房に映りましたが、それは失敗に終わることになりました。数日後でした。

「スミマセン! スミマセン! スミマセン!」

チャンの看守さんを呼ぶ声がして、それから慌ただしくなりました。どうもワン君が自殺を図ったようでした。それは未遂に終わりその後、彼は拘置所に移されていきました。留置場ではどうしてワンがあれほど頑になるのか噂されていました。私は嘘だと思っていました。だから、それはないだろう、それは考えすぎだと思っていました。

「いや、奴の言うことまんざら妄想とは言い切れないんだよ。奴、中国人といっても戸籍が無いからね、ここにいるウェイや他のみんなは身元もしっかりしてるし大丈夫だけど、奴はね」、

「交渉人口は10億人でも実際はもっともっといるんじゃない、戸籍には二番目以後の子供は載らないからいないことになっているの」。

「ワンは政府から認めてもらえない幽霊人口の一人なんだよ。あいつ金が無いからあんな無茶してやって来たんだろうね。だからそれで送り返されるとどういうことになるかな」。

チャンは銃殺の仕種をしています。私は良くわかりません。私には私の裁判が控えています。人の心配をしている余裕はありません。だから私は間もなくワンのことを忘れましたが忘れない人たちもいます。10月の下旬になってこんな言葉がありました。

「奴、裁判終わったそうね、やっぱりこれだろうな」。

看守さんがチャンと同じ仕種をしていました。少々気になってきた私はこんな質問をしてみました。

「あの1房にいた中国人、本当に殺されるの?」

「ワンかい、多分ね、そう言う事になると思うよ。

奴、昔の日本のエタ、非人と同じでさ、人間扱いされてないからね」。

裁判の結果、強制送還ということになると、どうも彼の人生がかなり悲惨なものになるのは免れないようです。当人はアメリカに行くつもりで中国を出たらしいと聞いています。留置場ではいつも聖書を見ている青年でした。

「上海は軍事空港で、・・・・だから見せしめのための・・・・」

と、ワンの行く末はあまり聞いていて楽しくないものです。留置場から拘置所に移管されると管轄違いとなりそれからのことは看守さんたちにも何も分からないんだそうです。裁判結果が強制送還なら彼は今入管にいる筈です。

 すいませんが、もしこの手紙の内容に興味をもって頂けますなら、マスメディアで伝えてもらえないでしょうか。

 主権在民という言葉が私は気に入ってます。主権在民であってほしいと思っています。だから主権者に伝えてください。知らないことには主権者もその主権の振るいようがありません。知った上でどうすればいいのかは世論を待ちたいと思います。お願いできるでしょうか。


 マスメディアの皆様、今見て頂いた手紙は私が拘置所へ移管となる直前に書いた物です。そして手紙を見た看守さんに呼ばれました。

「これさ、気持ちは良くわかるけど、もしこれでワンが日本に居られることになったらさ、他に真似する奴、出てくるぜ、それを全部受け入れるわけいかないだろう、どうすんだよ」。

私は何も応えませんでした。本当はこのように応えたかったのですが。それはあなたが心配することではありません。裁判所の仕事です。裁判所が規則と前例に振り回されるだけのものなら、あなたの危惧する事態にもなり兼ねないかもしれませんが、そんな裁判所はクソクラエです。その事件とその個人の状況を見るんです。そして良心に基づいて判断するんです。何も問題ありません。

「これ、どうなるかな、マスコミ来るよな、ニュースバリューあるもんな」。

 そして次に刑事さんに呼び出されました。久しぶりに取調室へ行きました。担当の刑事さん以外にもう一人そこにいました。

「私、副署長の・・・・・・・・・・」

要件のひとつはカレー事件、わたしの知人がそれに関わっていたものですから。そしてその後でした副署長が私にこう言いました。

「ワン・ミェンジャンのことなんですけどね、彼は彼で裁判で自己主張しているようです。マスコミもその大筋は知っているようで、たくさんの報道関係者が来ていたようです。これが・・・・・」

と、新聞のコピーを見せてもらいました。どこの新聞かはわからないのですがその記事を見ると私の知っている事実はあらかた報道されていました。

「でも私が伝えてほしいのは強制送還となると殺されるかもしれない、これをどうすればいいのか問いかけてほしいということなんですが」。

「ええ、おっしゃる事はわかるのですけどね、ただあなたの手紙を見ると何というか看守さんたちが可哀想で」。

看守さんが可哀想と聞いて何となく何を言いたいのか、まあ、規則というものから見ると看守さんたちの言動は外れ気味なのかもしれません。私は応えに困りました。これは余談ですが私は新東京空港署で見たお巡りさんたちが気に入っています。

「おい、誰かこいつら(中国人)に言ってやってくれよ、こいつら俺たちを信用してないんだよ、金取られちゃうと思ってるみたいなんだよ。日本の警察はそういうことはせんのだ! そりゃ、一部の警察官は知らんが、少なくともおれはせんぞ!!」。

「俺たちも仕事柄、いろんな連中を見るんだけど、Kや山崎を見ていると、まったく普通の人じゃんか」。

彼らを見ていると人間の匂いを感じます。彼らを見ていると物理的には留置人に対して公平であろうとしているようですが精神的には違うと感じられます。普段温厚の人でも相手によっては言葉がきつくなるときがあります。主観があるんです。その主観が必ずしも正しいとは言えないかも知れませんがそれであってもいいと思います。それは経験となっていくでしょう。間違っても規則通りにしか事を運べないお巡りさんを私は望みません。それでは不測の事態に何も対応することができないお巡りさんになってしまうからです。新東京空港署の留置場にはときたま所長が顔を見せることがありました。私は直接言葉を交わしたことはありませんが署長の言葉は聞いたことがあります。

「就業だ!」。

留置場に響き渡る声でした。これは余談でした。

 問題に戻ります。副署長と話した翌日だったかと思います。私は拘置所へ移管となりました。ワンに関する手紙は拘置所の刑務官に出してくれるよう渡しました。留置場や拘置所では外の様子はわかりません。拘置所を出てきた後、和歌山に着いてから図書館で朝日新聞の縮小版を調べましたが報道された様子はありませんでした。

 朝日新聞社そして週刊現代編集部の皆様、私の手紙はあなた達のところに届かなかったのでしょうか、あるいはもうすでに報道する必要がなくなっていたということなのでしょうか、私にはわからないのです。皆様はその答えをご存知のはずですね。朝日新聞社ではワンが日本に来たときのことは伝えられていましたがその後については何も報道されていませんでした。彼は強制送還されたのか、それとも日本に留まることを許されたのか私には何もわかりません。朝日新聞社そして週刊現代の皆様はこの事もご存知なんでしょうか。新東京空港所に私の顔見知りの人がいれば聞いてみようと思っています。

 話はかわります。1999年1月のことです。東京港区台場一丁目の路上で16歳の少年が9歳の男の子に包丁を突き付け座り込むという事件が報道されました。少年はこういうことを言っていたようです。

「マスコミを呼べ! 最高裁の判事を呼べ! 」

お台場といえばフジテレビの近くですよね、私はテレビを見ていました。マイクを持ったアナウンサーがこんなことを言っていましたね。

    「見えますでしょうか、あそこに子供を人質にとって少年が座り込んでいます。マスコミを呼べ、最高裁の判事を呼べと言っているようです。我々は少年を刺激しないよう照明を消してお伝えしています」。

私はこのニュースに非常に興味を惹かれました。どういうつもりだろう、どうするつもりだろう、難しいだろうなあ、わからないままにテレビを消して当時の勤めだしたばかりの工場へ向かいました。夜勤でした。その休憩時間に食堂のテレビで伝えられていました。少年は逮捕されたようでした。伝えていたのはニュースキャスターを務めていた安藤裕子女史でした。 

「この少年ですが精神鑑定の必要性はどうでしょうか」。

私はそう聞いた瞬間、込み上げて来るものがあり心の中で怒鳴りつけてしまいました。

少年の精神鑑定を言う前におまえ自身の精神鑑定が必要だろうが!!

これはもともとオウム教事件以来、私が彼女の報道姿勢を嫌っていたということがあったからかも知れませんが怒りを覚えてしまいました。

 さて、それでは直接当人を相手に話をしていくことにしましょう。

安藤裕子様へ

この一連の物語をあなたが見ていてくれていたなら幸いです。あなたを相手に話したいことがあります。まず初めに言っておきます。私はあなたが嫌いです。といってプライベートであなたを存じているわけではなく、私が嫌っているのはマスコミ人としての安藤裕子様です。そしてこれは私の主観と考えて頂いて結構です。私の友人が言っておりました。

「おれはニュースステーションが、ええと思うで、見てたら久米さんがどう思ってるか分かるんやけどな、久米さんはそれを言わん訳よ、今日なんか、視聴者の皆様はどうお考えでしょうか? 私はどうもで首ひねって終わったんやけどよ、俺そう言う態度が好きなんや」。

これは友人の主観によるものでしょう。私は筑紫哲也の静けさが好きなんですがこれも主観です。我々は各々の主観を持っています。そしてそれは当然あなたにもあるものだろうと思われますが、ちょっとあなたにあなた自身の主観を振り返ってほしいと願うのです。申訳ありません。今は申訳できません。

 まずはあなたに見て頂きたいものがあるんです。私が描いている原稿の一部なんですが見て頂けたら幸いです。今は申訳できません。後でまたあなたを相手に話をします。


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