死場へのオデッセイ 第三話より抜粋

ゆき、純文学がつまらなくなったと言われてから随分経ちますね。私これでもマンガの次ぐらいには純文学が好きです。私は自分が気に入るものを探します。好きな作家を見つけると追いかけます。前述のドストエフスキイも追いかけましたよ。他にも誰かいないかなと探すときは乱読します。書評も見ます。だもので文学と文学作品についていろいろ語られているのも多少は知っています。でも、文学とは何か? 何てよくわからない。良くわからなかった。自分としては芥川賞の候補になるのが純文学で直木賞は大衆文学ぐらいに思っていましたがこの死場を描き始めてより言葉の構造を考えるようになりましたね。今は私も私なりの意見を持っています。ゆき、文学の構造について話をしましょう。

 「限りなく透明に近いブルー」という文学作品を知っているでしょうか。それが世に発表されたときちょっとしたセンセーションを巻き起こしました。私が二十代前半のころです。あなたはまだ小さかったはずですが憶えているでしょうか。それはとても話題になったのでその当時私も手にとって読もうとしたんです。三十項から五十項ぐらいは読んだはずですが、その後放り出してしまいました。読み続けることができなかったんです。私は自分の心を覚えています。

「わからない???   ????  ????」

どうしてわからないのかも分かりませんでした。つまり当時の私にはさっぱり分からなかった。ところが世の中の作家や評論家たちがこの作品についていろいろ言っておりました。

「こんな小説に賞などやれんよ、認められるわけなかろうが」。

「文章はどこも間違っちゃいないし、いいんじゃないの」。

「題名が良く分からん、限りなく透明に近いなら、それは透明であって」、

ゆき、私自身はさっぱりわからないにもかかわらず人の言葉だけ覚えていました。どうも皆、この作品をどう捉えればいいのか困っていたようです。そして忘れた頃の1994年になって私にこう言う人が現われました。

    「やまさん、村上龍はおもしろいんですよ。ぜひ一度読んでみて下さいよ」。

彼は数ヶ月の間インド・ヒマラヤの私の家の隣に住んでいた、いうなら隣人でした。彼が私をどう思っていたかは知りませんが私は彼を友人と呼んでさしつかない人物と思っていたので、こいつがこう言うのなら見てみようかともう一度手に取ったんです。「限りなく透明に近いブルー」でした。そして今度は最後まで読めました。二十代の私にはさっぱりわからなかったのですが四十代になって少々わかることがありました。

 私の思うことを話しましょう。

ゆき、この小説の作中人物が私の家を訪ねて来てそして目の前で小説と同じ振る舞いをするなら私は即座に彼を叩き出します。私は彼の振る舞いが嫌いです。人が彼をどう見るのかは人それぞれかもしれませんが私は認めることはできません。

つまり、その作品には私の好まないものが描かれています。私は作者が気になりました。どういうつもりだろう? 作者は一体これをどう思っているんだろう?

ところが、それがわからないんだ。作中人物に対する作者の意見が見えてこないんだ。

 二度目に手に取った「限りなく透明に近いブルー」は文庫化された物でした。文庫版のそれには巻末に解説がありました。その解説者は文体を強調していました。非常に透明感がある文体と語っていました。私も同感です。その通りだと思いました。

これは何だろう? どうしてこんなに透明感があるんだろう?

考えるうちに思い当たりました。叙事と叙情の違いだ。

叙事・・・・・事件、事実をありのままに述べること

叙情・・・・・自分の感情を述べ表すこと

ゆき、大衆文学と呼ばれるものは好きでしょうか。特長的な主人公がいます。剣の達人でもおっちょこちょいで間の抜けた素浪人とか、クールでニヒルで悪めいた私立探偵とかがいてね、敵役はいかにも悪ですといった調子の人たち、キャラクターがはっきりしていてわかりやすい物語が進行する。例えば水戸黄門。水戸黄門はテレビ・ドラマだけど、まあ、私はそういうのが好きでしてね、通俗的と言われるのが癇にさわりますが、好きなものは好きなんです。

純文学がつまらないと同様、大衆文学もおもしろいのが少なくなったみたいですが、私は文学評論をやりたい訳ではないので、それはさておいて、私が言いたいのは大衆文学と呼ばれるものには作者の干渉があるということです。つまり作者の観点よりその作品を語り作中人物を飾っていくことによって読者の心を作者の意図する方向に持っていこうとする訳です。

ゆき、私はそれをマインドコントロールと呼んでいくことにします。

さて、「限りなく透明に近いブルー」にはそのマインドコントロールがありません。ないんですよ、その作者は作中人物の世界と生態に対して自身の感情表現をしていません。作者の作中人物に対する描写には贔屓のも非難も見つけられません。どこを取ってみても叙事なんですよ。別な言い方するならその作品と作中人物に対してどういう考えがあるのかは読者に任せます。作者はそのことに対して一切不干渉の態度です。

ゆき、私はとっても気になりましてね、「限りなく透明に近いブルー」はあまりにもあれなのもですからね、作者はどう思っているのだろう、気になって探したんです。そして一ヶ所見つけました。ここに作者の作品に対する意見があると思えるところが一ヶ所ありました。この作者は沈黙している。この作者は限りなく透明でいようとしている。そう見えたとき、この作品の題名が理解できたと思っています。

そうだ作者は筆者として限りなく透明に近い、でもやっぱりブルーだったんだ。

と、そうは思っていますが私はその作者じゃありません。確かにはわからない。もし運命があってこの作者に出会うことがあれば確かめてみたいと思っています。

ゆき、先程、私は小林秀雄をその振る舞いにより地獄に突き落としましたが、叙事と叙情を踏まえてもらったなら今度はその文体より小林秀雄をもう一度見てみるのもおもしろいと思いますよ。彼は作家としてどんな存在だったのか?

リチャードバックという作家を知っているでしょうか。私の好きな作家の一人でその代

表作を二つ知っています。「Jonathan Livingston seagull」と「illusion」です。自分が好きなのでどうしても人に薦めたくなってしまいます。

 ゆき、あなたがまだ読んでいないのなら、ぜひ一度目を通してもらえたらと思います。前者は直木賞作家、後者は芥川賞作家により翻訳されています。そして巻末にはそれぞれの翻訳者による言葉がついています。作品とは別にこのそれぞれの翻訳者の言葉もちょっとおもしろいんですよ。どうもその翻訳者たちの作者としての態度がその言葉に表れているようです。その言葉は翻訳した作品に対するまたはその著者に対するものですがあなたにはそれがどう見えるだろう、人にはその違いがどう映るんだろう、私はそのことに興味があります。

 ゆき、あなたに知っておいてほしいのです。あなたがあなた自身とあなたの創造物をどのように語ろうと自由だと思います。けれども、あなたがあなたではない他の人やその創造物を語るときには注意してほしいのです。礼儀が必要だろうと思うのです。なぜならそれは自分自身ではないのですから。そしてそのとき、文学の構造を知ると知らないでは大きな違いが出ます。それは文学の枠内に限ることではないのです。

 先程マインドコントロールという言葉を使いましたが私が初めてその言葉を聞いたのは1995年でした。何度も何度も聞いたものですが憶えていますか? 私は覚えています。現実にマインドコントロールが為されていましたが当の人たちは自分のしていることに気づいていないんじゃないかと私はそれが気になります。

 ゆき、あなたには一話より構造、構造という言葉を使い続けてきました。構造を知ることは自分自身を知ることにつながると考えています。他人に対しての問題はまず自分自身を知ってからだと思っています。構造を理解するためにもうひとつ知ってほしい重要なことがあります。五話でそれを終えてから社会構造に話を向けましょう。

 ゆき、最後にもう一つあなたに問題として残しておきたいのですが「構造船団」という小説を知っているでしょうか。


死場のオデッセイ 第五話より抜粋

ジャックはベティが幸せでなければ幸せでない

  だから

     ジャックは不幸せ

        なぜなら

           ベティを幸せにできないから

              なぜなら

ベティはジャックが幸せでなければ幸せでない

   だから

     ベティは不幸せ

         なぜなら

            ジャックを幸せにできないから

               そして

                  ジャックも不幸せ

                     なぜなら

ジャックはベティが幸せでなければ幸せではない

   だから

      ジャックは不幸せ

         なぜなら

            ベティを幸せにできないから

               そして

                  ベティも不幸せ

                     なぜなら

ベティはジャックが幸せでなければ幸せではない

   だから


 ゆき、あなたの好きなR..D.レインには前項のような言葉がたくさんありました。おもしろいですよね、言葉遊びとしては私も嫌いじゃありません。でもね、それを遊びとは捉えず真面目に考え込む人がいたなら私はその人を笑ってしまうかもしれません。そしてさらに自分の現実世界をそのような感覚で見ている人がいたなら私は哀しくなってしまうのですよ。それはきっと本当に真面目な人なんでしょうね、だから哀しい。

さて、それでは真面目に考え込む人のために堂々巡りを止めましょう。

ゆき、それはとても簡単なことです。その堂々巡りに自分を放り込めばいいのです。あなたちょっとそれをやってみてくれますか。前項の言葉にあなた自身を放り込んでください。「ジャック」と「ベティ」ではなく、「私」と「あなた」に置き換えてもう一度見てください。

ゆき、気づいたことがあるでしょう。人称を換え「私」の視点で見ることで認識できたことがあるでしょう。四話の最後に私が出会ったヤクザの話を置きましたが、見てくれましたか? おそらくあなたの知識にあろうヤクザと違うものを感じたと思っています。それは私の文章が一人称で描かれていたゆえに「私」の視点で見ることになったからでしょう。言葉の構造において肝心要な点がこの人称にあります。気をつけてください、特にあなたのような人(悪い意味ではありません。私大好きです)は三人称で語られると社会構造や権威等に誤魔化されてしまいそうだからです。

   「人は誰も現像の外に立つことはできない。どのような幻想を生きるか選ぶことができるだけだ」。

と、東京大学で学んでいたあなたはその先生より教えられたんでしたね、その言葉は三人称です。人称を換えてみてくれませんか、そしてそれはどこで誰が誰に対しての言葉なのかを考え合わせるんですよ。ねえ、ゆき、その言葉をどう思いますか?社会学部の教授がこれから社会に出る人たちに贈る言葉としてはふさわしいですか、当たり前の言葉だと思いますか? 私は金八先生の贈る言葉を気に入ってる者なので、その言葉はね、ちょっと、

「中沢新一は当たり前のことをわざわざ難しい言葉を使って語ってるんだよ」

ゆき、あなたがそう聞いたとき正解だって直感しました。私も中沢新一には興味がありその著した本を見るんですがその言葉にフラクタルだとか何だとか知らないものが多く基礎知識のない私には、ちょっと・・・高卒の哀しさというところですか。まあ、中沢新一は中高生を相手にしているわけではないようですから、本当に彼を理解しようとするなら勉強しなければということでしょうね。でも中高生にはわからない言葉を克服した人たちからも彼は難解と言われているようですが、それは表現方法、言葉の使い方にあると思うんですよ。そっちはわたし得意なんです。言葉の向こうの意思を読み取ることには自信があります。知らない言葉が多いから確かにとは言いませんが、概ね、あなたに同感です。中沢新一は当たり前のことをわざわざ難しく表現していると思います。そしてそれはドンファンがカスタネダに論理的説明をしないのと同じだろうと思います。その態度が非常に大事なんです。

 まぜなら、

「気づくという事はいつだって個人的な問題」

だからです。

 ゆき、あなたが大学の教材として使うれていたドンファン・シリーズ、カスタネダとドンファンの最も大きな違いは個人としての認識レベルでしょう。カスタネダのそれはドンファンのそれよりもはるかに多かったでしょう。だけどもそれは他人の言葉を見聞きして覚えた知識でしかなかったんです。それを察したドンファンは導いていたんじゃないでしょうか。カスタネダがその自らの眼で世界を認識するようにね。

 ゆき、三話で名前を出したリチャードバッグの「イリュージョン」、その中に私が大好きな言葉があります。

「教育とは被教育者に、君も教育者と同じ程度のことは知っているんだと気づかせること」

教師としてはその生徒自身が意味を知るよう導かなきゃいけないんですよ。ドンファンのカスタネダに対する態度はそれじゃないかと思っています。そして中沢新一もそうなのかもしれないと思っています。もし運命があり当人に会う機会があればぜひ確かめたいことです。

 ゆき、言っちゃなんだけど、それって、とっても、とっても、とっても難しいんだよ。そして、それは、とっても、とっても、とっても、とっても価値のあることなんだ。と昔インドで悟りを開いたらしい住所不定のプー太郎が言ってたよ。日本ではそれは「折伏」とか「摂受」とかの言葉で紹介されるようだけど、でも、どうも、ちょっと、どうも日本で「折伏」なんて言葉を良く知っている人たちを見ていると、

意味分かってないな、こいつら!

と思えるんだよ。この話は相手を換えてすることにしましょう。あなたも見といてね、それじゃ、また。


 安藤優子様、私の言葉を見続けてくれていたなら幸いです。今見て頂いたのは抜粋です。ゆえにわからないこともあろうかと思いますが叙事と叙情そして人称と認識について私が何を言いたいのかを察してくださいますなら幸いです。

 さて、安藤優子さん、その昔の江戸時代あたりには直訴というのがございましたね。私はマンガなどのドラマで何度も見ておりまして知っています。直訴はしてはいけない事でした。直訴した人は死罪となります。それが規則でした。それども直訴する人がいました。悪人ですね。時の体制がつくったルールを破るのですからそれは社会通念上の悪人でしょう。にもかかわらず、私は直訴する人を見るたびに感じる思いがありました。それはね、何のために? 何のために死罪覚悟で直訴するのかに対してでした。それはドラマでしたからね、作者はちゃんとそれが分かるよう描いてくれていましたから。安藤優子さんはどうだったんでしょう、そんなドラマ見たことなかったですか? 

 ところで、1999年1月、お台場で座り込んだ少年を見て私は直訴を思い出したんです。悪人ですよね、なんたって子供を人質にしてるんですから人道に反します。おまけにマスコミを呼べだの最高裁の判事を呼べだの常識に反します。そうでしょう、安藤優子さん。

まったく、この少年、どういうつもりなんだろう、おまえ、自分の人生、棒に振るぞ、わかってやってんのか? 本気なのか? 

少年が気になっていました。そしてもうひとつ気になっていました。指名されたマスコミと最高裁判事の方です。応え方難しいだろうなあ、どうやって相手をしていくんだろう?

「我々は少年を刺激しないよう、照明を消してお伝えしております」。

まあ、そうですよね、下手に刺激して惨事になったら大変です。細心の注意が必要でしょう。これはおもしろいことになった、こいつはおもしろいとその立場にいない私は不謹慎な興味をそそられました。それが夜の11時過ぎ、あなたがキャスターを勤める番組を見ておりましてね、何だそうだったのかと了解できることがありました。あなた達、もともと応えようなんて意志を持ってなかったんですね。まるで他人事のように平然と伝えるあなたの口調には少年の意思を無視する罪悪感の微塵も感じられませんでした。これがあなたとそしてフジテレビなんだと了解しました。どうもあなたたちと私とでは物事の見方に違いがあるようですが、それは何に拠っているのかの違いから来るのではないかと思われます。ご自身の拠り所を見直して頂けますなら幸いです。

 私はお台場で座り込んだ少年が何を言うのかを生で見たかったんですよ。そして最高裁の判事がどう応えるのかもやっぱり生で見たかったんです。生で見ることで少年の覚悟がどのくらいのものなのか、そして最高裁の判事の人格を肌で知ることができるチャンスと思えたからです。もちろん治安を守るべき警察としては黙って眺めているわけにもいかなかっただろうし、これはそれぞれの立場から微妙だ、おもしろいことになったと見ていたんですが、がっかりしました。

「少年は世間に訴えたかったと言っているようです」

と後になってあなた達に言われても迫力が、ちょっと、それに事によると98年、私の裁判で法廷での生の言葉と記録されたそれが違っていたことと共通するところがあるかもしれませんし、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・失礼。

 ところでこれは仮の話ですが、もしあの時あの少年がマスコミが来ないことに腹を立てて子供を刺していたなら、あなたはどんな報道をしたんでしょうか。少年と警察を語っていたのかな? 安藤優子さん、少年が逆上しなくて良かったですね。それでは最後にちょっと露骨な喧嘩言葉を残しておきます。

「この少年ですが精神鑑定の・・・・・・・・」

少年の精神を問う前にあなた自身の精神を問いなさいよ。自分は安全圏に隠れて他人を異常者扱いしようとするその態度、あなたのような人を「人間の屑」というんです。

 さてさて、安藤優子さん人間の屑と言われましたがどうお考えでしょうか。それは名誉毀損ではありませんか。告訴はどうなさいますか、お気持ちをお聞かせください。どうなんでしょう、どうぞ、一言でも。

マスメディアの皆様に話を続けていきます。私が安藤女史を相手に話したことを皆様はどのように受け取られたのでしょうか。その話とは別に個人を相手にしたこと、それ自体をも考えてほしいのです。私の話は人を語る際の報道姿勢に向かいます。友人がこう言っておりました。

    「フライデーがおれんとこに来たんだけどよお、

      林ますみらの悪口言わせたいんやなってのがミエミエなんやんか、

      その記者の口調がTさんそっくりで、おれ可笑してよ、

      KはXXXXに居るわ、もうずっとよ、家に帰ってないよ。

      家に置いとけへんのよ、マスコミ集まって来て」

迷惑なんだそうですよ、あなたたちにとっては仕事なのかも知れませんけどね。ちなみに、Tさんというのは家庭訪問販売で常に全国トップクラスの成績を挙げていた人です。それも足で稼ぐのではなくセールストークにより客を口説き落としていくやり方でそのテクニックに絶大な自信を持っていた人です。

 ところで、フライデーの記者さん、あなた、林ますみさんの悪口言わせたかったんですか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・どうして? 

 さて、私は見たり聞いたりすることで何かを感じ心が動きます。つまり「感動」をします。一般的に「感動する」と使われている以上に「感動」の種類にはいろいろなものがございます。そしてこの「感動」することは私だけの特性ではないと思っておりますが皆様ご同意願えますか。ご同意くださいましたなら、次のことがおわかりになるかと考えています。

 世の中の事件、出来事を報道する立場の皆様はその報道に皆様の手心を加えることで読者や視聴者の「感動」を恣意的な方向にマインドコントロールしていこうとできます。つまり、皆様は人をマインドコントロールすることの可能な立場にいらっしゃいます。

      「マインドコントロール出来ますよね、

          みんなどう思ってんのか知らないっすけど」

98年、インド・ヒマラヤで出会った若いNHKの社員がそう言っておりました。

皆様の中にもわかっていらっしゃった方がいるだろうし、また考えたこともなかったという方もいるかもしれません。いずれにしろ、御自覚くださいますなら幸いです。御自覚くださらないと、自らの是非を考えることはできません。マインドコントロールについてはそれが出来る皆様がまず考えるべき問題と思っています。

 ところで、カレー事件なんですがそれが起こった当時留置場にいた私は主に週刊誌でその報道を見ていました。すごい加熱ぶりだったようでそれ事態をマスコミ裁判と呼んでいたところもあったようです。

そして私は残念です。

それをマスコミ裁判(是非は別にして)と呼ぶならば、その裁判の進め方を間違えていたんじゃないだろうかと思っています。

 「限りなく透明に近いブルー」という小説作品を読みその物語の内容をご存知の方がいらっしゃいましたなら幸いです。その作品に引っ掛けて話をします。もし仮に、「限りなく透明に近いブルー」が虚像による物語でなく事実を記録することによる物語であったなら、読者に与える感動にはどんな違いがあるんだろうと私は考えます。皆様一緒に考えていただけますなら幸いです。私にはテレパシー能力がありません。よって人の心の感動はわかりません。けれど自分のそれなら良くわかります。何といっても自分の心ですから。私の場合「限りなく透明に近いブルー」が虚像であれ実録であれ私の心に与える感動は大差ありません。なぜかというと、現実に自分の眼でそれを見たわけではなく、また自分自身の周りにそれと似たような話を聴いたこともない私にとっては、例え、それが実録であっても私には関わりのない遠い世界の物語だからです。現実への注意は多少強まるでしょうけれどね。

 私には他人の心はわかりませんが自分の心ならわかることと、そしてこれまでの自分の経験よりある程度人の心を推測することが可能です。その物語が虚像ではなく実録であった場合、最もその感動に違いが出るのはそこに名前の出る人たちだろうと思われます。登場人物です。

 一般的に実録物語を見てそれに関わらない人たちと当の登場人物の感動の最も大きな相違点は関わらない人たちの感動は主に登場人物の言動に向かうのに対し、当の登場人物の感動は主に筆者に向かうのだろうと思われることです。

例えば、

オレの事をそんな風に描いてもらって、照れるな。

        いや、あんた物事が良くわかってるよ。

どうしてあたしのことをそんな風に描くのよ。

        あんた、物の見方がおかしいんじゃない。

つまり「感動」の内容云々はともかく「感動」の向かう方向が違うということです。

 ところで、「限りなく透明に近いブルー」が実録物語であった場合は、ちょっと、ちょっと皆様その作品の文体にご注意ください。そこには贔屓も非難もない、そこから筆者の主観が見えないでしょう。登場人物のリュウやリリーがそれを読んでもその感動を筆者に向けていくのは難しいかもしれません。そのとき彼らの感動はどこへ向かうのだろう?

「林ますみらの悪口言わせたいやなってのがミエミエなんやんか」

 カレー事件の報道にはあなた達の主観がミエミエでした。まるで大衆小説のようでした。けれども、その事件は虚像ではなく現実の出来事です。私は残念でなりません。もしその事件を伝えるあなた達に贔屓も非難もない限りなく透明な存在であってくれたなら、どういうことになっていただろう。当の林ますみさんたちがそれを読んだらその感動はどこへ向かっただろう。皆様、このことをお考えくださいますなら幸いです。

「人を裁いてはいけません。人を裁くと、

            その裁いたモノサシであなた自身が裁かれます」。

2000年前の住所不定で定職を持たないヒッピーがそう言っておりました。それは非常に高い視点より語られ言葉の向こうに真実がありますよ。ヒッピーの言葉ですのであなたが信じていたかは問題ではありませんがその言葉の意味を理解していただければ幸いです。もし、難しいようでしたならこの後に私は大麻についての文章をさしはさみますので、そちらと考え合わせて上記の言葉をもう一度見て頂けるでしょうか。そして皆様ご自身の拠って立つところをご再考くださいますなら幸いです。

 私は社会通念上の常識や道徳そして権威等を破壊するつもりでいます。人がそれらに拠って自信を支えることが出来ないようにするためです。それらを破壊することでそれまで見えなかった人にも見えてくるだろうと考えています。真実は自らの意思によって立つ者にのみ見えてくるものですから。

 私の言動は全て私の意思によるものであるゆえにその責も私にあります。だから怖くてたまりません。私、ものすごく気の小さい臆病者なんです。自分の意思、自分の心はわかるんだけど他人の心はわかりません。だから人にからむとき、特に知らない人にからむときには不安でたまりません。先程、安藤優子さんにあんなこと言っちゃたけど、どうなるんだろう、わかりません。個人的には知らない人なので見当がつきません。とはいえ、私は彼女にからみ、それに彼女がどう応えるか(応えないという応えも含めて)によって私と彼女の関係が出来ていきます。本当に告訴されちゃうかな、恨まれるんだろうな、それとも? いずれにしろ自分の意思でからんだことです。逃げることは出来ないし、そのつもりもありません。

 私はこの時代、とても眼につくんです。自分の意思によるのではなく常識や何かの権威によって人を圧迫する姿勢、それこそが私の打ち壊したいものです。破壊し尽くしてしまいたいと思っています。

ねえ、皆様、人にからむなら自分の意思でからみましょうよ。

 この先、私に運命が味方してくれることにより私の破壊工作が進むと世の中の雰囲気は今までとは少し違うものになっていくでしょう。けれども、つまるところ人の心はわからない。人間関係の悩みは尽きないでしょう。それは不安ではあるけれど、でも、だからおもしろい。そこには人間がいます。

 以下、大麻とそして少々の薬についての話を入れます。


大麻について・・・・その前説

 私の頭脳と身体能力は特に抜きんでたものではありません。人々の中にあってはおそらく並みの部類だろうと思っています。書き物をしておりますが文章能力においても綺麗に描ける能力は特に備わっておりません。そして社会的知識においては並を大きく下回るだろうと自覚しています。しかしながら、ただ一点、視点の高さにおいては人後に落ちないと自負しております。そしてそれは大麻を吸うことによって私の身についたのです。

 大麻はその使用者の精神に影響を与える物といえるでしょう。けれども、どのように?と問うとき大麻について語られたものが幾つもありますが、いまだ私を納得させる物には出会っておりません。特に98年に私の弁護人であった者より示されたそれがありました。政府刊行物のようでしたが腹立たしくてなりません。私は大麻が大好きなの者です。その大麻が未熟者の手によって語られ誤解され伝わることに我慢なりません。大麻を正しく理解してもらうために私の知るところを書き残しておきます。まずは前説として私と大麻のかかわりから話します。

 私が初めて大麻に出会ったのは1988年3月、当時34歳でした。それ以前の私は大麻を見たことも、また使ったことがあるという人の話を聞いたこともない者でした。私の日常会話には大麻という言葉がありませんでした。

「俺、もうインド出るからあげるよ。使い方は・・・・・」

大麻をもらって教わった通りに作って吸ってみたんですが私は変化を感じられませんでした。何日かしてあるグループに出会いました。その中の一人の女性が大麻を持っており彼女と吸うことになりました。彼女はいろんな話をしてくれました。

「あたしはシバが好きなの」

「?」 誰? それ? 私にはわかりません。

「あたしのフィアンセ自殺したの。首に紐を巻きつけて

         こんなふうに右と左から引っ張って自分で自分の首を締めたの」。

私は彼女の言葉に引き込まれていきながら自分の五感の変化を感じました。そのときが私の大麻の初体験と言えるでしょう。それから時折使うようになりました。私はその五感の変化が嫌いじゃありませんでした。むしろその変化を楽しんでいました。まずは耳からでした。もともと音楽は嫌いではありません、10代から20代にかけてお金があればレコードを買っていました。大麻を吸って昔好きだった曲を聴きました。それは昔聴いたのと同じ曲なのに私の耳はその捉え方が違っていました。大麻を吸った私の耳は楽器の細部の音を聴き取り全体の音を楽しみます。以前にはなかった事です。耳だけでなく眼もそして味覚も違ってきていました。五感の変化を楽しんでいました。けれどもそれは半年に満たない間でした。非常に強い衝動がやってきました。それは耳からでも眼からでもありませんでした。私が知る五感からのものでなく、それは全く私の知らないところからのものでした。そして私は探し始めました。何を探すのか良くわからないままに探し始めていました。私の内部にいろいろな思いが見えてきました。まともじゃない狂っているのかとも思えました。道を求めていました。94年4月、当時付き合っていた女性に「やまさん、何になりたいの?」ときかれて応えてしまった。「神様になりたい」メチャクチャだ、現実でない。私はどうしてそのように思うのだろう? 私はどうしてこのようにあるのだろう?しばらく混乱が続きます。訳のわからないままに91年2月、ヒマラヤの村に行き着きました。その場所に魅せられそこに居つくことになりました。そして自分をふり省り始めたんです。自分の歩いてきた道を思い出し心に残っていることを全て洗い直しだしました。

そして得た結論、

だから私はここにいる。私は私なんだ。

私は私で在るためのことをしていこう。ヒマラヤで大麻を吸い続けていました。88年インド・カルカッタで大麻についてこんな言葉を聞いています。

「人の神経って100%開かれてるわけじゃないんですよ、

モルヒネなんかとは逆でこれはそれを開いていく物みたいですね」。

医学部を出てこれから医者としてやっていくんだと言っていた人でした。それで私はどうして神経は100%開かれていないのかを尋ねたんです。

「人はそれに耐えきれないからだろうって、言われてますけど」。

以上、大麻についての前説でした。以下、本題に入ります。


大麻について  本題

五感の性能(以下、感性と呼びます)は人によって違うでしょう。そのことにはおそらくたいていの人は同意してくれるだろうと考えています。まわりの人を見ていれば自分と感性が違うなと思うことがあるだろうからです。とはいえ、具体的にその人の間性を自身で感じることは不可能です。自分の感性を他人のそれと取り替えることは出来ませんからね。

ところが、大麻を使うと自身の内部で感性の違いを実感することが可能となります。それが大麻です。大麻によって得た感性を外部に向けると綺麗に見える、綺麗に聞こえるといったところですが今まで知らなかったことを知ることで精神は興奮するでしょう。おもしろいあるいはハッピーになるといった精神状態になる人が多いようですが感性は常に外部にだけ向かうと限るものではありません。

別に大麻を使用しなくても人の感性は少しづつですが変わっていくでしょう。昔あれだけ感動したものも今になると少し違って見えたり、昔まるでわからなかったものが今は良く思えたりたりすることが皆様にもあるのではないかと思っています。けれども、たいていの皆様は特にそれを不思議とは思わないでしょう。それは何年も何年もかけての変化ゆえにその意識に受け入れ態勢が出来ているからでしょうか。

ところが大麻を使うと瞬間に感性が変わります。そこには激しい落差があります。当の使用者が知らなかったものです。初めは外部の刺激を楽しむことに夢中になれてもいずれ落ち着くと感性は内部へ、使用者の意識にも向かいます。戸惑いがあると思われますが受け入れていく人と受け入れられない人に分かれます。

私には大麻を吸う友達がたくさんいます。髪を伸ばしていた友人がいました。次に会ったとき、彼は髪を短くしていました。彼はこう言いました。

「おれ、何で髪伸ばしてるんだろうと考えちゃったんですよ、そしたら、

カッコ付けで伸ばしてると思えて、それは嫌だって切ちゃたんだ」。

感性が自身の意識に向かうことで自分というものの再検討が始まります。自分の物の見方、考え方、生き方を再検討する。それは自分の意思に拠って新たな自分を生きることにつながります。私に友人たちは皆そうです。

しかしながら、人によっては自分自身を見つめ再検討することに拒否反応を示す者がいます。自分を見つめることに拒否反応を示す人がいることについては大麻云々を別にしても皆様に回りの人を見渡してもらえれば、そういう人いるよ、と同意をもらえるかもしれませんが、ちょっと待ってください、もうひとつ考え合わせてほしいことがあります。それは皆様です。皆様が自身は自分を見つめることがおありでしょうか。あると答えられる方に少々嫌味っぽいのですが、都合のいいように自分を見てはいないでしょうか? いうならば、是非はともかくあなたの感性はあなたの意識と馴れあっているんです。

ところが大麻を使うとその馴れ合いが成立しなくなります。ゆえに、それが自身の意識に向かうとあなたな予想を越えることになります。足元がひっくり返ることになり兼ねません。自分を知るには恐怖が伴います。

それが他の誰かより自分の問題点を指摘されたのなら、その指摘したほかを攻撃し、それに専念することで自分の問題点を考えることから逃げられるんですが、大麻によって得た感性や新たな視点が自分の意識に向かってきたなら、攻撃に専念することで自分を防御できません。相手がいませんから。

それでも自分を見つめることや自分の問題点から目を背けたいなら自分自身より逃げるしか手はないでしょう。大麻を吸い続けることは難しいでしょうが、精神に作用する薬は大麻だけではありません。考えないように我を忘れるようにしていく方向の薬もあるんです。自分から逃げたい人にとっては都合のいい薬です。とはいっても、都合のいい薬を使っても忘れられていられるのは薬の効いている間だけでしょう。薬の効き目が切れたら元の木阿弥でしょうね。事によると以前よりもっと強い恐怖感がやってくるかもしれません。どうするんだろう? 都合のいい薬を使い続けるのかな?

一般的に大麻は弱い薬物として紹介されているようですが、それは間違っていますよ。精神に最も強い影響を与えるのは大麻です。それに比べれば覚せい剤もヘロインもたいしたことありません。人生観を変えるまでには至りませんからね。なのになぜ、大麻は弱い薬物と見られるのかと考えるに依存性の問題でしょうか。大麻はその性質上使用者の依存を拒否します。

一方、覚せい剤やヘロインを常用する人たちには強い依存性が見られるようですが、どうしてそのようになるのかを考えて頂けますなら幸いです。

以下、薬の話をします。


薬について

 薬は二つの方向に作用します。身体の方と精神の方です。どちらの方面で使うか最終的に決めるのは使用者ですが、何はともあれ、知らないことにはわからない。今から10年前です、こんな言葉を聞きました。

「そう、倒れるやろ、ヘロイン、ガバガバやってから

アシッド(LSD)4枚、赤魂12錠、スピード(覚せい剤)が・・・・」

   「それだけ使うと危ないよね、止めなかったの?」

   「そんなもん知らんよ、あいつが俺は大丈夫です、俺は平気ですよ、

    言うから、そうですか、ほな、どうぞ、言うただけや」。

薬を使いすぎて意識不明により救急車で病院に運ばれた男がいたんです。そのときに聞いた言葉なんですがその中に赤玉というものがあるでしょう、赤玉というのは風邪薬として市販されていた物です。(当時販売禁止になっていました。) けれど彼は風邪をひいたわけではなく風邪薬として使ったのではありません。

 別の話をします。

「バファリンを通常の7,8倍飲むとな、

フワッとして気持ちが良くなるんやで」

バファリンは頭痛薬ですが精神にも作用するんだなと知ることになりました。

 ところで、精神に作用すると思われている阿片(オピウム、ブラウンシュガー、ヘロイン等)ですが、

「オピウムは風邪をひいたときなんかには、いいんだ」

知人(友人と呼ぶと、そいつ怒りそうなので)が言っておりましたが私も同感です。実際、私はインドで風邪をひいたときなどはオピウムをつかって身体を休めます。それがどのような薬かわかれば使い道は使用者の意思次第でしょう。どのような薬かわかればの話です。わからない薬には私はちょっと遠慮しますが。

 富士薬品は三ヶ月でクビになりその後、他の置き薬の仕事を始めました。一般家庭のお得意さんをまわり使った薬の代金をもらって、そして補充していきます。売人である私にとってはありがたいお得意さんが少なくありませんでした。ありがたいお得意さんが大量に使うのはほとんど頭痛薬と風邪薬そしてドリンク剤です。

「スピードは精神状態を上げる(アッパー系)

ヘロインは逆に下げるんよな(ダウなー系)」

10年前非合法ドラックの売人がそう言っていましたが、15年前合法ドラックの売人であった私としては一般の薬でも同じことが言えるかなと思っています。もちろん、成分が違い、効力の違いはありますが。今度はその違いから私にこんな不安があります。

 覚せい剤や阿片ならば仮に見様見真似で使う人がいたとしても過剰になると身体にインフェクション(黄色い悪い出来物です)が現われるので、当たり前の感覚の持ち主ならそこで使用を止めるでしょう。自分の身体にインフェクションが出来るのを見てもまだ止めないのは普通の感覚ではないジャンキー(薬物中毒者)でしょう。でも市販の薬はインファクションのような信号は出ませんから気づきにくいのかもしれないんです。

「頭痛薬をようけい使うお客さんがおってな、

手術の時に麻酔が効きにくうなってた・・・・」

人がいたらしいんですよ。私はジャンキーと呼ぶほどではなくても、人格がおかしいというほどではなくても、でもちょっと間違えると危ないかもしれない人たちはたくさんいたなと思っています。「この薬は小児の手の届かない所に保管してください」と市販の薬には書かれておりますが皆様はしっかりした大人ですよね? 

 最後に皆様に申し上げておきます。大麻、覚せい剤、阿片等は現在非合法です。けれども非合法であるからといってそれは「悪い物」ではなく、なた「善い物」でもありません。「それはそういう物」であるだけなのです。善悪につながる問題は使用者の側にあり、そしてそれを語る側にあります。薬の専門家でない者にとってはその成分がどうかなど与り知らぬところであり、要はそれが我々の身体と心にどのような働きをするかを知りたいわけです。

 ところが語る側の偏見によって要らぬ恐怖心を植え付けられたり、好奇心をあおられたり、あるいは知らせるべきを知らせなかったりで「それがそういう物」であることが伝わらないといつまで経っても理解できない。我々は小児ではないでしょ。私のこの一文は皆様に道筋を理解して頂くことを意図して書いたものです。薬についてはさほど詳しい訳ではありませんが筋道をお考えくださいますなら幸いです。


 再びマスメディアの皆様に申し上げます。皆様にところに送らせてもらったこの一連の物語は新東京空港署宛てで私のところに二部届けられております。その一部は空港署を通じ検察庁へ、もう一部は私の弁護人となる人に渡すつもりです。そして検事あるいは弁護人のどちらかから裁判所まで届くようにしたい所存でおります。

判事様へ

今回、私の事件を担当することになる裁判所の判事様に申し上げます。あなたから見てどのようになるのかはわかりかねますが、私にとってこの裁判は98年の過去の裁判を引きずったものです。私は98年と同様争います。公判の始まりに私は裁判官であるあなたに対し次の三点を質問します。

一  裁判は良心と法律に下づいて真実を追究するものと考えておりますがそれでよろしいでしょうか。そしてその旨実行の約束を願えるでしょうか?

二  上記のことが正しく実行されたかどうか否かを後に主権者が確かめんとするとき非情に重要なのが公判記録です。裁判所によるいかなる改ざんも省略もない公判記録を残すことを約束願いますか?

三  被告人には黙秘権があると同じく自由に言葉る権利もあると考えています。判事様にくれぐれも誤解なさらぬよう願いたいのは争うのは原告と被告であって検事と弁護人が争うのではないことです。弁護人は法律と法廷にうとい被告人を補佐し、人権の立場より擁護する者ではないでしょうか。争うのは被告人である私です。その私に自由に言葉る権利がないなら裁判は公平のものではなくなります。検察官や裁判官が私に尋問するように私から検察官や裁判官に質問していく必要も考えられます。私のそれが常軌を欠いたものでない限り、自由に言葉る権利を侵害しないことを約束願いますか?

 判事様、以上の三点でございますが裁判の進行をスムーズにするためにも出来ますならば、あらかじめ応えを用意しておいて頂けましたなら幸いです。なお、正しい応えがいただけない場合、私は裁判を拒否することになるでしょうとお断りしておきます。

 どうも失礼いたしました。


検事様へ

 今回、私の事件を担当される検察庁の公判検事様に申し上げます。社会正義の立場より被告人を追及しその嘘と真実を明らかにしていくことがあなたの勤めなのだろうと考えています。私を追及してください。あなたの追及に対し私は人権(私が私である権利と考えております)を持って受けて立ちます。検事様、私は公判で預言者を名乗るつもりです。そして預言者である私には大麻が必需品なのだと主張していくでしょう。私を追及してくださいますなら幸いです。なお、その際、良心をお忘れないで頂けますなら幸いです。あなたに良心を忘れた言動を感じた場合、私があなたを追及することになります。

 今回、私の事件を担当される検察庁の捜査検事様に申し上げます。社会正義の立場より被疑者を追及し、その罪を暴くために法廷に送るか否かを決めるのがあなたの勤めなのだろうと考えています。私を起訴してください。おそらく起訴してくれという被疑者は前代未聞かも知れませんが、私はふざけているわけではありません。この一連の物語が空港署より証拠として提出されたなら、あなたは当然初めから全部読んできていますね、私、真面目ですよ。98年に逮捕されて勾留中、実は私は内心で不起訴になることを願っていました。そしてそうなっても別に不自然ではないと思っていました。98年に私が逮捕される少し前に、やはり大麻で逮捕されていたKさんがおりました。

「stupid prosecutor only 7gm ganja 」

同房にいたヘロイン700gで捕まった者が喉っておりました。Kさんの所持していたのが7gの大麻でした。私はそれが7gであれ、7kgであれその量よりも内容を見なければいけないと考える者ですが7gということは営利目的でないのは一目瞭然で議論の余地もありません。後は当のKさん自身なんですが、

「俺たちも仕事柄いろんな連中、見るんだけど、

Kや山崎を見ていると、全く普通の人じゃんか」、

どう見てもKさんの人格に問題があるとも社会的に問題があるとも思えません。けれども彼は起訴され公判検事より、懲役一年を求刑されました。結果、彼は執行猶予で出るまで四ヶ月間を留置場で過ごすことになりました。

普通の人が四ヶ月間も留置場につながれることをあなたはどう思うのでしょうか?

私のこの一連の物語を読むことで法定は事実を追究する場ではなく真実を追究する場所なのだと理解してくれていたなら幸いです。

そしてあなたに申し上げます。被告人を法廷に送るか否かを決めるあなたの立場は検察官であってもその仕事内容に判事的な意味合いが含まれていることを御自覚ください。

とはいえ、あなたは裁判官ではありません。私は法廷で確かめたいのです。現実に裁判は良心と法律に下づいて真実を追究するものであるのか否かを。あなたも法曹会の一員としてそれを確かめたくはございませんか。私を法廷に送ってください。そしてその結果、答が出せたなら、あなた自身の仕事に反映させてください。

弁護人様へ

今回、私の事件を担当する弁護人様に申し上げます。国選弁護人は自ら辞任することもこちらから解任することも出来ないという知識をあるところから仕入れました。できますれば、私の事件を担当すると決める前にこの一文があなたの眼に入るなら幸いです。

あなたにとって割に合わない仕事となると思われます。もし私に私選弁護士を雇うお金があるならば(50万円ぐらいと聞いております)以前に私の弁護をしてくださった同じ方を望むのですが、私にはそのお金はありません。けれども私は弁護人を必要としています。証人が欲しいのです。牢屋につながれる私にはできないため弁護人のあなたに探してもらいたいのです。私は公判において無罪を主張するつもりはありません。法律違反は現前の事実です。それが公判以前の警察あるいは検察庁の段階ならば、そこは密室です。権力を笠に着る融通は認められませんが、真実を下にした融通はある程度は必要と考えるのですが、公判で行われる裁判でそれをするのは私自身も認められません。といって有罪を認めたからといって私は刑務所を望む者ではありません。刑務所へ行きたくはありません。刑務所内にある拘置所を少々知っておりますが、私大嫌いです。拘置所は警察の留置場とは全く別物の観があります。もし裁判で私の主張が通れば刑務所を見直す必要が出てくるでしょう。刑務所を望まない私はそれなりの作戦を考えています。執行猶予を狙うのではありません。懲罰の意味を問うんです。98年の裁判で私は懲役を求刑され、また判決も執行猶予付でしたが懲役刑となりました。その事に異論があります。

私は今回の裁判でその事を言う展開にも持っていくつもりです。懲役刑とはどのような相手に対して下すべきものなのかという方向です。その際に私の仕事振りを証言してくれる人たちが欲しいのです。私はこの十数年間、定職を持たずにきています。ゆえに私が自分の生活費を稼いだところは一箇所ではなく全国各地にとんでいます。そこから証人を探し出して来て欲しいのです、検察官と裁判官が納得するまで。交通費とそしてその手間、馬鹿にできない量になると思われます。国選弁護人の報酬がいくらかは存じませんが割に合わない仕事となる事を覚悟の上、お引き受けくださるなら幸いです。そして何よりもあなたが真実を追究する精神の持ち主であってくれたなら幸いです。あなたにご相談したいことがあります。私の話を聞いてくれるでしょうか?


マスメディアの皆様に申し上げます。裁判は公開で行われます。それは裁判が正しく行われていることを主権者が確認するための絶対条件です。とはいえ、一方では人権の問題があります。現在、規則ではTVカメラは法廷に入れないようですが基本的にはそれに賛成です。例えどのような人物であろうと例外なく人権は存在すると考えるからです。

オレの恥ずかしい姿を全国にし知せないでくれ。

といったところがあるでしょうか、この辺は報道に際して皆様で考えて頂きたいのですが。

 ところで、被告人の中には逆に報道を望む者、TVカメラを望む者もいるかもしれません。いくつかのケースが考えられますが、今回、私はその一人です。

 私は大麻取締法で裁かれる被告人であり、その点では私の個人的な事件なのですが、ではなぜ、自ら逮捕されるように仕組み裁判にもっていったかとなると、法廷に関わる人たちの姿勢に問題があって、そうしていることをご理解願えるでしょうか。それは私個人の問題ではありませんよ。TVカメラを法廷に望むのですが、多分、今回はまだ難しいでしょうねえ。

 現在の裁判は有名無実のものになっていると思われます。少なくとも98年、私の裁判はそうでした。黙秘権は本来、警察や司法関係者の構暴から個人を守るためにあるはずですが、私の前に現われた裁判官は黙秘権を違う意味に捉えていたように思えてなりません。裁判が法律に下づいて行われるのも裁判官による利己的な感情裁決を避けるためでしょう。独裁は認めないと、それが本来の法治の意味だったはずですが違うでしょうか。

 けれども、本当に独裁を避けようとするなら裁判官のその職務は決して楽なものではありません。

 つい先日に裁判の傍聴記を見たんです。96年から97年にかけての麻原彰晃氏のそれです。うざいですね。傍聴記の書き方にも問題があるんですがそれを別にしても、やっぱり、うざいです。私、裁判官でなくて良かったです。そう思います。でもそう思う一方で、この事件私のところに回ってこないかなと密かに思う心がちょっと。

 公判で私が名乗る職業は裁判官の仕事にも共通するんです。裁判は原告と被告そして主権者が了承できる判決を出すのが仕事です。(独裁者は別ですけどね。)そのためにも、まず自分が納得できなければなりません。法廷を見ていてウザイと感じるとき、そこには何か問題があると考えられます。それを見直すんです。問題は自分にあるのか? それとも?もう一度見直すんです。そして問題点が見つかったらそれを排除していきます。裁判官は私のようなはみだし者とは違いそのための権力があるはずです。問題点を排除していくことで裁判は誰の眼にもわかり易くなっていくでしょう。そうなれば皆が了承できる判決も難しくありません。と口で言うのは簡単なんですが、実際に行うその見えない作業は楽じゃありません。オウム法廷に具体的に思うことがあるのですが傍聴記から語ることはちょっと控えておきます。

 余談ですがオウムという言葉は元来インドのものです。このように書きます。

そしてそれは通常は「うん」と読むんです。「あうん」の「うん」です。ところがそれ一字だけを取り挙げると「オウム」と読みます。元が「あうん」の「うん」ですから意味はア承です。「応う」というところでしょうね。そしてインドにはやはりオウムと呼ばれる存在がいます。それは全てに対して「応う」といわれる者なんでしょうね。やはりオウムはシバ神の称号です。今現在、シバは神話の中だけの存在ですが、ところがインドはおもしろい、インドにはとてもおもしろい事実があります。もし私に運命があればその事実を発表したいと思っています。そのとき、麻原彰晃氏はどんな顔をするだろう? 見てみたい!

 ドラマに見る大岡越前や遠山の金さんのような裁判官が欲しいと思っています。彼らは法律的に正しいかどうかは良く知りませんが人間的には問題ない。そして彼らの裁きは常にそこにいる全員が納得する方向にあるでしょう、だから皆が名奉行と認めるんです。ドラマの中の人物ではありますけどね。

 私は今回の裁判で納得のいくまで争いますが、その私が納得するのに二つのケースが考えられます。私は公判で預言者を名乗ります。私の言うそれは筋道を見極め、他を導く視点より当たり前の言葉を語っていく者という意味ですが、法廷にいる検察官、裁判官が私以上に高い視点を持ち、そこからやはり当たり前に語ることで私のどこが間違っているのかを筋道を立てて示してくれた場合がその一つです。そのときは仕方ありません。私はニセの預言者でした、お騒がせしてごめんなさいというところです。もう一つは逆のケースです。私が当たり前の言葉で語っていく筋道を彼らが認めてくれた場合です。そのときには前代未聞の判決が出ることになると思われます。私の目論見どおり前代未聞の判決が出たなら今後それが判例となるでしょう。

判決は判例や前例にこだわって出すものではないのだ、

というね。そうなって初めて大岡越前や金さんの活躍できる世の中になると考えています。私の裁判にご注目くださいますなら幸いです。

 そして広く世の中に伝えてくださいますよう、お願いします。

           2000年11月16日      山 崎 一 夫


 裁判の決着がついたならば、そしてそれが私の望むものであったなら、私はこの一連の物語に留置場から出すだろう手紙等を含めて預言者としての最初の仕事として残しておきたいと思っています。

「死場のオデッセイ 序章」と考えています。

何であれ、裁判の決着がつくまではこの一連の文章を皆様がどのように使おうとご自由です。大いに利用して頂きましたなら幸いです。

 余禄です。文藝春秋2000年11月号に目を引く命題がありました。

「なぜ人を殺してはいけないのか」と子どもに聞かれたら、

というものでした。 

あほか、お前は!

私ならそれで終わるでしょう。ただし私が良く知っているそして私を良く知っている子どもに聞かれたらの場合です。私は身近な者にはとても構暴で子ども相手でも本気で喧嘩する性質があります。その一方でその相手との距離が遠くなることで私の応えは違うものになっていきます。

 おそらく文藝春秋が提示した命題は近年の親子関係や教師と生徒のそれを憂える思いがあってのものではないかと想像するのですが。

「死場のオデッセイ」第四話の主テーマが子どもとの関係になります。もし、私に運命があり、それを出版する機会が与えられたなら、是非、見て頂きたいと思っています。先のことです。どうなるかはわかりません。

 先の事ではない今ですがおそらく警察の取調べが終わって起訴となれば、裁判が始まるまで留置場の私は暇になるのだろうと思います。で、ちょっと、先の命題を少し変えて書いてみようと思います。

「なぜ人を殺してはいけないのか」と被告人に聞かれたら、

裁判で私の主張が通ることになると判事の仕事がそれまで以上に難しくなると考えられます。私も多少責任があるかもしれませんしね、まだ書いておかなければならないことが残っています。これを書いている今は私の頭にイメージがあるだけなので詳しくはこれから見極めていきますが、社会と人権そして死刑という言葉が出てくるでしょう。善悪の彼方から語り続けます。今よりもさらに高い視点が必要です。

そして私には何よりも煙が必要。


<<PREV