ジャーナリストである筑紫哲也氏が肺癌で亡くなった。筑紫氏に対しては、批判的意見をもつ人もいるかと思うが、氏のジャーナリズムに対する姿勢は、その業界に席を置くものでなくても一目置くところがあったと思う。
筑紫氏をよく知らなくても、「多事争論」という言葉を好んでいたのをニュース番組で知っている人も多いのではないだろうか。これは福沢諭吉の言葉であり、「違う意見を持つ者が議論する事がなにより大切である」ということを意味している。筑紫氏は、偏らず様々な意見が交わされることが大事であり、自由な気風はそこから産まれると伝えようとしていた。またそこから、「少数派の声、弱者の目線」というものを大切にしていた。いかに様々な意見があっても、少数派・弱者の声は響きにくく、議論の場に届きにくいからであろう。自由の気風には、少数派・弱者の声が必要なのだ。
この筑紫哲也氏が、大麻について語っていたのを知っているだろうか。筑紫氏が朝日新聞ワシントン支局の特派員だった頃、政府機関の大麻に関する資料を読んだ上で、大麻について肯定的な発言をしたという逸話がある。
1977年、井上陽水が大麻所持で逮捕された時、同年11月6日放送放送の『さて今夜は』という黒柳徹子の番組で、「自分もアメリカでマリファナを吸ったことがあるが、タバコよりは害が少ないことは医学的に明らかであるし、これを日本で使用すると違法ではあるが、そのことと絡めて井上陽水の歌まで否定する一部の意見は間違っている」という旨の発言をしたらしい。「医学的に明らか」と言い切る根拠には、ワシントン特派員としてマリファナに関する大統領諮問委員会の報告書を読み、その内容を記事にしたことからであると言う。おそらくその報告書とは、筑紫氏がワシントンにいた頃(1970年初頭)から考えると、1972年のシェーファー委員会『マリファナ - 誤解のシグナル』であったのではないかと考えられる。
この報告では、「個人で使用するための少量の大麻を個人的に所持している場合には最大1オンス(28g)まで、100ドルの罰金を科すべき」という勧告がされている。これはカンナビストが主張する、「非犯罪化」と同じことを指している。当時のニクソン大統領は、その勧告を拒んだ。そして筑紫氏は、大麻には有害性が少ないことを知っており、それを伝えたジャーナリストであったということになる。
そんな筑紫哲也氏が亡くなった。そのニュースは多くのメディアで取り上げられ、リベラリストとしての彼の功績や人となりが語られていた。折しも、毎日のように大麻事件が報道されている時期でもある。テレビのワイドショーでは、「大麻は有害、より強力な薬物に進む」とか「乱用すれば凶暴になる」などという不正確な放送がされ、大手新聞社の社説などには、「深刻な身体的、精神的影響が出る」とか「覚せい剤、コカインなどへ薬物依存が進む」とか「大麻は吸引すると幻覚などをもたらす」などというような、筑紫氏が読んだシェーファー委員会の報告書とは逆の、根拠の無い既に否定されていることを、事実確認されること無く報じていた。
実は筑紫氏は、30年ほど前は確かに大麻の事実を伝えたジャーナリストであったが、ここ数年はそのことに触れることは無かった。半ば同情的に考えれば、それだけ今は言論封殺がジャーナリストを襲っていると考えていいかもしれない。筑紫氏はそれを言葉にしなかったが、決して否定的なことは言わなかった。それを良しとはしないが、氏が病症で癌と闘っていなかったら、事実確認することなく大麻を悪役にして、それを平然と電波や紙面に載せることに躍起になっている一部マスコミを見て、どういう思いをもったことだろうか。
筑紫哲也氏は、「違う意見を持つ者が議論する事がなにより大切である」「少数派の声・弱者の目線」を訴えてきた。
「大麻はアルコールや煙草よりも有害性は低い」という我々の言葉は、「大麻は有害である」という意見と違う意見ではないか。大麻の事実を訴える少数派の声であり、理不尽に自由を奪われる弱者の境遇を現しているではないか。その意見は黙殺され、その声は聞こうとされず、その境遇には目を向けられないで、多くの若者たちが不必要に逮捕され、社会的制裁を受け人生を閉ざされていく。そして、ただただ事実確認されることのない、偏ったネガティブ報道だけが巷に広がる。それが今の有り様である。
筑紫哲也氏の死を悼む人がいるのなら、私は氏の訴えを受け継いでもらいたい思いでいっぱいである。筑紫氏が亡くなった今。この連日のように大麻報道が報じられている今。筑紫氏が訴えながらも、踏み込みこむことが出来なかった大麻に関する「多事争論」に、僅かながらも触れようとするジャーナリストたちの声を私は聞きたい。身勝手ながら、そんなジャーナリスト魂を見せてほしい。筑紫氏が死しても、ジャーナリストは生きていることを見せてほしい。それは筑紫哲也への、鎮魂にはならないだろうか。 |