マリファナ・マーチ 2005 大阪・札幌・東京宣言
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マリファナ・マーチ 2005 大阪・札幌・東京宣言

 大麻の所持は「逮捕に値しない」。オランダ、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、イギリス、スイスをはじめとするEU諸国やカナダ、オーストラリアなどの国々ではこのような判断から、大麻の規制のあり方に大きな変化が生まれてきました。大麻にはそれほどの害がないことは、もはや常識となりつつあるのが、世界的な趨勢です。しかしながら日本では、未だ大麻について理性的な議論ができない状況があります。
  日本では毎年、2000人を越える人々が大麻取締法により逮捕され重い刑罰を受けています。タバコやアルコールに比べても有害性・危険性が決して高いとはいえない大麻をこのように厳しく取り締まらなければならない理由はありません。事実、最近の大麻事件裁判の公判を通して、行政、司法ともども大麻が有害で危険なものだという科学的で公正な根拠・証拠を示せないことが明らかになってきました。
  現在の日本は、大麻を使用することよりも大麻を取り締まることの方が、弊害が大きいという矛盾した状況にあります。大麻事件の被告の大多数は、どこにでもいるごく普通の若者、社会人や学生、つまり市民です。大麻取り締まりは、公権力による人権侵害といっても過言ではありません。
  現在の大麻取り締まりは、かってのハンセン病の強制隔離政策と同じ誤りを繰り返しています。取締当局は、大麻問題について前例を踏襲することを行動原理とした不作為(あえて積極的な行動をしないこと)、官僚主義を改めるべきです。
  この間の日本社会の風潮として、「公」の安全や市民生活のセキュリティ対策を優先するあまり、公権力による強制や監視、取り締まり強化が進行しているように思えます。この背景には政治・経済・人権といった基本的分野におけるグローバルで世界的な趨勢に対応できない内向きで自閉的な社会システムや保守的な価値観の破綻が明らかになりながらも、それを改めるのではなく逆に強化することで乗り切ろうとしている一連の政策があるように見受けられます。わたしたちは、大麻問題を「青少年犯罪」や「非行」の問題と混同、あるいはそのスケープゴートにして理性的な議論に耳を塞ぐようなことがあってはならないと訴えます。

 大麻取締法違反の裁判で、裁判所は、大麻が本当に危険・有害なものなのかという核心的な判断を避けています。各地の大麻事件裁判で、裁判所は立法は国会の裁量であるから司法が判断すべき問題ではないと被告弁護側の主張を退けていますが、公正な裁判がなされると信じてきた多くの被告(国民)は、判決に納得のいかないまま刑に服しているのです。司法は、大麻取締法は憲法違反であるという正当な主張に耳を傾けるべきです。
  マスコミはこれまで大麻について誤解や偏見に基づいた報道を行ってきました。大麻を過度に危険な「麻薬」のように報じるテレビ、新聞、週刊誌により国民は大麻への誤解を植えつけられてきました。マスコミは、先進諸国で進んでいる大麻容認化の流れを、そして日本でも大麻の規制の見直しを求める声があることを無視し続けてきました。マスコミは大麻問題について国民に真実を伝え、社会的な問題の存在を明らかにすべきです。いまこそ公正な報道を行うというマスコミの社会的責務が問われていると思います。
  また難病の中には、大麻が最も有効な治療薬であるというケースもあるのですが、患者さんたちは大麻が規制されているために、有効な治療を受けられません。大麻が医薬として使えるようになることは、患者さんたちにとって当然の権利です。わたしたちは、医療目的に大麻を用いることができるよう求めます。

 わたしたちは、有害でも危険でもないものを厳しく取り締まっているのは理不尽ではないか、その犠牲者(逮捕者)をなくすべきだと訴えてきました。それはヒューマニズムに基づいた、人間としての当然の道理だと思います。人権とは、人間が人間らしく生きていく権利です。大麻の取り締まりは人権侵害を生んでいます。
  大麻の容認化という問題は、大麻を好ましく思っている推定で数十万人から百万人規模のいわば社会的マイノリティ(少数者)だけに関わっているものではありません。社会全体から見れば、少数の人間にしか関わりがなく、多くの人たちにとっては直接関係のない問題だとしても、それにより人権を侵害されている人が存在しているという現実に対しては、この社会で暮らす全ての人々は無関係ではないはずです。
  たとえ少数であっても、そこに人権侵害が存在しているという事実に変わりはなく、人権が侵害されている人数の多寡によって、その重要度や優先順位が変わるというようなことがあってはならないと思います。欧米の先進国と比べ、日本は人権意識が低いといわれています。わたしたちひとりひとりが身近に起きている具体的問題について声を上げ、人権が侵害されていることを主張することによって、人権の尊さが認識され、人権に対する意識が高まると考えるとき、それは日本人全てにとって有益なことだといえます。
  よりよい社会を築くということは、どのような未来の理想を語るよりも、まず今現在、貧困や差別、抑圧など不当・不幸な状況に置かれている人々を救うことからはじまるのだと思います。不当・不幸な状況に置かれている人々への共感やいたわりが人間社会の根本になければ、その社会にはいかなる未来もありえません。
  このような意味において、それほど有害性が高くない大麻を不当に厳しく取り締まり、その結果、生活や人生そのものが傷つけられる人々が存在しているという理不尽な現状を改めることは、この日本社会のかかえている矛盾のひとつを解決することであり、この国をよくすることです。また大麻取り締まりに関わる捜査費用から裁判、拘置所、刑務所の維持、さらにはいわゆる「麻薬・覚せい剤乱用防止」キャンペーン活動など、これらは国費=税金のムダ使いでもあります。
  大麻の容認化という問題は、人権が本当に守られる社会、世界人類の普遍的な人間としての道理に反しない、自由で暮らしやすい社会に日本がなれるかどうかという試金石なのではないかと思います。
  人間の歴史は紆余曲折を経ながらも人種や民族、国籍を問わず、理不尽な社会的状況を改めてきました。そのような視点からすれば、大麻の容認化は良識に基づいた世界的な世論・趨勢であり、日本においてもいずれ大麻の容認化が実現するのは間違いありません。しかしそれまでの間、大麻取締法により人生が傷つけられる人々が続出するというのは見過ごすことはできません。現在、規制されている薬物の中から大麻を切り離し、その所持・栽培を個人使用に限り一刻も早く容認すべきだと訴えます。

2005年5月 マリファナ・マーチ(大阪・札幌・東京) 参加者一同