2006年を迎えるにあたって――世の中よかれ麻よかれ
〜大麻の「自由化」(=非犯罪化)を求めるカンナビストの報告

『CannabisNews』第13号(2005年12月29日発行)より



2006年を迎えるにあたって――世の中よかれ麻よかれ
〜大麻の「自由化」(=非犯罪化)を求めるカンナビストの報告

麻生結/カンナビスト運営委員会

 2005年の後半、カンナビストは法務省への請願と日本弁護士連合会(日弁連)への人権救済申立を行いました。(詳しい報告は、本誌記事を参照)。また、この間、各地の大麻事件裁判の支援を行ってきましたが、今年4月の徳島高裁の判決ではわれわれの主張を一部、認める判決が下りています。
 これらの行動を通して、現在の大麻の規制の見直しを現実の問題として考えるとき、論点がどこにあり、何が課題になっているかが鮮明になってきました。さらに、この数年、日本社会は大きく変動しているように見受けられますが、それにともない大麻問題を考える上で、新しい焦点(論点)が加わってきました。

 現在、日本の大麻経験者数は50万人から100万人と推定されています。その数は小さな県の人口に匹敵しますが、大麻の規制見直しを現実化するのには未だ十分な力にはなっていません。まず、誰かが現在の大麻の規制は間違っているのではないかと声をあげなければ何もはじまりません。憲法でも思想信条の自由、言論の自由は基本的人権として認められています。
 そして、次に大麻の規制はどこがおかしいのか、何が問題のポイントなのか、そういったことをつかんでいないと、現実の政治・社会の中では有効な力にはなり得ないという状況があります。
 日本が抱えているいろいろな社会問題のひとつとして大麻問題が社会的に取り上げられるようになるためには、一般の国民、市民の理解を得られるような説明が求められています。司法の場でも通用する論理やそれを裏付けするデータが求められています。
 特に、行政や司法は、この問題をどのように見ているのか、何を考えている(あるいは考えていない)のか、その背景などをこちら側が理解して、行政や司法の懐いている危惧や疑念を解くようにしていかねばならないと思います。お互いが自分の言い分だけを言いあっているだけでは、いつまでも平行線です。大麻の非犯罪化を実現するということは、相手側(行政や司法)を動かすということです。そのためには、まず相手方のことをよく知っていなければ実は結びません。
 今の日本社会は長年にわたる「乱用薬物」撲滅キャンペーンの影響を受け、大麻に対しても誤解や偏見がつきまとっており、理性的な議論が成立しにくい現状があります。そんな先入観を振り解くのは一朝一夕にはいかないかもしれません。しかし、それが日本の現実であるとするならば、それを引き受けていくしかありません。こういう積み重ねを通して、一歩一歩、現実を変えていきたいと思います。

 大麻の規制見直しを支持する人たちの中にも、こういう議論を硬いとか、縁遠いと感じる人がいるかもしれません。そんな方々に分かってもらいたいと思います──カンナビストのムーブメントは、自由で大らかな価値観、人に優しい想いから出発しています。そして、そんな想いをこの社会の中で具体的に現実したいと願っています。大麻取締法によって人生を傷つけられる人がなくなることを痛切に願っています。そのためには現実社会の中で通用する、実現可能なこと、それを形にするための論理や方針が問われているというところから、こういう議論をしています。
 大麻の非犯罪化に関心を寄せる全ての人たちに、現状の報告とともに問題意識の共有化を提起したいと思います。

 

法務省と日弁連への働きかけ
 法務省への請願は、大麻取締法に罰金刑を導入するよう求めたものです。現在、時代の変化に対応して刑法を改定する準備が法務省で進められています。その一環として2005年夏に窃盗罪、公務執行妨害罪、職務強要罪などに罰金刑を設ける案が公表されました。
 大麻取締法の罰則は、大麻の所持で5年以下の懲役、栽培7年以下の懲役と懲役刑だけです。実状として、ほとんどの大麻事件裁判では、初犯で個人使用の栽培や所持に関しては執行猶予付きの有罪という判決が下されています。とはいえ、拘留期間の長さ、裁判などで長期にわたって普通の市民生活が途絶えること、そして警察に捕まえられること自体が「犯罪者」として社会の厳しい偏見にさらされることなどによって、学業や仕事など、それまで築き上げてきた人生が大きく傷ついてしまいます。もし罰則の選択肢として懲役刑より軽い罰金刑が導入されたならば、大麻の取り締まりによって人生を傷つけられる人が減ることになります。

 日弁連への人権救済申立は、大麻の取り締まりが公権力(国)による人権侵害であることを訴えたものです。全国から集まった申立人1256名の署名も日弁連に提出しました。日弁連は弁護士法という法律に基づき国家機関からの干渉を受けない独自の自治権を有しており、全国の弁護士が所属しています。日弁連は人権擁護の活動を行っており、法的な拘束力はありませんが、人権侵害が起きている事例に対して警告をしています。
 大麻の取り締まりは、法律に基づいてるとはいえ、その大麻取締法自体が憲法違反であって、国が人権侵害を引き起こしている──実際、こういった言い分が認められるか簡単にはいかないかもしれませんが、要は、公の場で大麻の問題が議論されるようになることをめざしています。
 大麻取締法は憲法の第31条(罪刑の均衡)、および13条(個人の尊重)、第18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)、第34条(抑留・拘禁に対する保障)、第36条(拷問及び残虐な刑罰の禁止)、第37条(刑事被告人の諸権利)に反しています。
 この間、各地の大麻事件裁判では大麻取締法は憲法違反だという訴えがなされています。それが認められたならば、国の最高法規である憲法に違反した法律は無効であるから、大麻取締法は無効、逮捕された人は無罪ということになります。しかし、今から20年ほど前の1985年、当時の最高裁は、大麻取締法は憲法に違反していない、合憲であるという決定を下しています。以来、裁判ではその判例が受け継がれています。
 当時の最高裁の決定は、大麻には有害性があるという前提でなされています。それを覆すには大麻の有害性の有無がポイントになります。そういう経緯を踏まえて、大麻の有害性についてカンナビストは調査、研究を重ねてきました(次項でふれますが、裁判でもそれが一部、認められる判決が出ています)。日本の公的機関のいくつかの調査で、大麻には著しい有害性はないことが明らかになっています。今回の人権救済申立では、こういった内容を網羅しています。

 

四国の大麻事件裁判支援の成果
 大麻事件裁判で、大麻には有害性はないと訴えた被告Mさんに高松高裁は判決文の中で一部それを認めました(一審の有罪は変わらなかった=控訴棄却)。
 簡単に経緯を説明すると、Mさんは大麻約20gの所持と大麻8本の栽培で起訴され、一審で懲役1年半の実刑判決を受けて控訴していました。高裁では検察側から大麻の有害性を示す証拠資料が法廷に提出されました。その資料は、1970〜1980年代の国内の動物実験と、主に1980年代までの海外の一部文献の翻訳情報、あるいはそれをもとに執筆された論文など。カンナビストは、その証拠資料を受け取り、ひとつひとつに反論を作成して弁護人に送りました。検察側の有害説と弁護側の有害性否定説に対して、裁判所は次のように述べています。

 「このような指摘(大麻有害説のこと/引用者注)に対しては、その根拠となる動物実験による結果から、人体に対する影響を推測することの当否や、有害性の程度についての見解の相違などから、人体に対する有害性を否定し、又は有害性を肯定できるだけの決定的な証拠はないとする見解も存することが認められる。
 このように、大麻の有害性については、多様な見解が存するところ、国民の福祉を向上、増進すべき責務を負っている国としては、国民に対する明らかな害悪を除去すべき責務を負うことはもちろんであるところ、その害悪の存否について、前記のとおり、異なる議論の存する大麻の場合であっても、その有害性を肯定する研究が存在し、人体に対し害悪をもたらす可能性が否定できない以上、国民の福祉を向上、増進するという公共の福祉の見地から、大麻の栽培や所持を規制することには合理性を認めることができる。」(平成17年4月19日、高松高等裁判所判決、大麻取締法違反事件、平成16年(う)第400号)

 ここで「人体に対する有害性を否定し、又は有害性を肯定できるだけの決定的な証拠はないとする見解も存することが認められる」と裁判所が認めたことは一歩前進です。これは今までは、黒(有害)としてきたことが、灰色(有害と有害ではないという両方の意見がある)となったわけで、そんな灰色の容疑でいきなり人の自由を奪うような刑罰を科すのは重すぎる、罪刑の均衡(憲法第31条)に反するというのがわれわれの主張でした。薬物に限らず、健康食品・調味料・嗜好品・化粧品など、人が摂取したり付着させるどんな物質であっても、使い方や使用量によって人体に有害に作用することがあるのは当たり前のことで、有害性を完全に否定することは事実上、不可能です。問題は、その危険性が人に刑事罰を科さねばならないほど重大ものか、その程度問題にあるのです。
 裁判所は「有害性を肯定する研究が存在」していると述べていますが、それは古い翻訳情報や動物実験で、われわれの調べたところでは、国内で大麻の使用が問題になりはじめた1970年代前半から約30年あまり、大麻による肉体的・精神的な弊害は起きていないことが明らかになっています。現実に問題は起きていないが、古い外国の本に問題があると書いてあるから、問題があるのかもしれないという司法の見解は、かなり追いつめられたものです。今後、全国各地の大麻事件裁判で求められれば、この間、培ってきた資料、データを弁護活動に積極的に生かしていきたいと思います。

 

日本社会の動向と大麻問題
 ここで特にふれておきたいことがあります。よく最近の日本社会は犯罪や安全の面で揺らいでいるといわれます。それが数字上の裏付けのある客観的事実かどうかについては、専門家の間でも反論があるのですが、国民の間に漠然とした不安感があるのは確かのようです。日本社会の長期にわたる不況や少子高齢化などが影を落としているのかもしれません。
 2005年の年末、マンション、ホテルの耐震強度偽装問題や各地で起きた小学生の殺人事件などが連日、報道されています。少し前には、海上自衛隊の隊員がかかわった大麻事件が新聞の一面で大きく報じられました。そんな風潮を受けて、国や地方自治体ではセキュリティ、安全、治安といった問題への取り組みを優先する動きがあります。一方で、社会の中で人権や福祉といった価値観が相対的に低下しているように見受けられます。
 わが国では、長年にわたり事実上、覚せい剤、有機溶剤(シンナー)、麻薬類、大麻など法律で規制されている薬物は、すべてひっくるめて社会の敵と見なす薬物乱用防止キャンペーンが行われてきました。現実には、大麻の使用で健康障害を起こした事例は、事実上ないことが公的調査で明らかになっています。大麻が原因で二次犯罪を起こした事例もないことが、情報開示請求から明らかになっています。
 それにもかかわらず、犯罪や安全への不安や警戒心が、大麻問題を理性的に、公正に考えることを阻んでいる、そんな場面が垣間見えてきました。大麻というだけで、最初から未成年の非行問題と結びつけて反感を抱く人たちがいます。これはカンナビストがスタートした1999年の時点にはなかった新しい局面です(別の視点からいうと、カンナビストの活動領域が広がってきて、一般の市民、行政や司法、立法と直接、向きあう場面が多くなってきたということもあります)。
 1999年の時点では、もちろん基本的にはいまも変わらないのですが、大麻規制の是非をめぐる論点は、大麻の有害性の有無、その程度問題に尽きると考えていました。2005年12月の人権救済申立のために準備した諸資料・データは、ほぼそれを解決したと考えています。事実、その準備段階にあった四国の大麻事件裁判高裁判決では、前述の通り、われわれの主張を司法は一部認めるところまできました。
 こういった前進とはまったく別の角度から、少年非行や犯罪、治安といった面から大麻の非犯罪化にとって障壁となるような社会的風潮が強まってきた。われわれは、いまの状況をこのように見ています。

 

大麻取り締まりをめぐる構図
 この間の活動や各地の大麻事件裁判を通じて見えてきた日本の大麻規制の全体的な構図、いわば見取り図のようなものをごく簡単に説明したいと思います。大麻を規制しているのは、国ですが、具体的には三権分立の下で、立法(国会)、司法(裁判所)、行政(厚生労働省、警察、法務省・検察)と分かれています。

 直接、大麻の取り締まりをしているのは警察や厚労省・麻薬取締部などで、逮捕者を裁判所に起訴し、刑罰を求めるのは検察(法務省)です。これらは国の行政機関(役所)で、法律に基づいた職務として取り締まりを行っています。逮捕された人の刑罰を決めるのは、自分たち(行政)ではなく司法(裁判所)の担当だというのが公式的な言い方です。自分たちは、大麻取締法という法律があるので、それに則っているだけであるという立場をとっています。
 大麻を含む薬物の問題を管轄しているのは厚労省ですが、2004年に行った情報開示請求からは、大麻について国内ではほとんど研究されていないことや、海外の研究についても把握していないことが明らかになっています。その一方で、大麻取り締まりを行い、外郭団体を通じて大麻は有害な薬物だという広報活動を行っています。
 昨今、行政の不作為という言葉を耳にすることがあります。不作為というのは、あえて積極的な行動をしないことという意味ですが、行政の不作為とは、やるべきことをやっていないということです。過去の例として、ハンセン病の患者さんたちへの人権侵害として問題になった隔離政策は、その当時は法律に基づいて行われたもので厚労省は自分たちに責任はないという立場をとってきました。その後、裁判で、本当は隔離する必要はないことが分かった時点で、なにもしようとしなかったという厚労省の姿勢が明らかになり、行政の不作為として糾弾されました。大麻の取り締まりも同じような構造にあります。厚労省の姿勢は、行政の不作為と言わざるを得ません。
 法務省(検察)や警察は薬物問題に対して、社会防衛・刑事政策の面から強硬な姿勢を示しています。その背景には、薬物は、犯罪や非行に結びつくので取り締まらなければならないという判断があります。薬物事件に厳罰を科すことが社会への見せしめになり、その恐怖によって薬物の使用を抑止するという方針が採られています。薬物取り締まりは法務省、警察が主導権を握っていて、厚労省はそれに引きずられているといっていいかもしれません。
 わが国では覚せい剤も大麻も乱用薬物として一括りにされており、事実上、大麻も同じ扱いを受けています。国が出している報告書などを読むと、薬物問題の中心は覚せい剤で、それに次いで有機溶剤(シンナー)や「麻薬」類が位置づけられています。そういった区分は、心身への有害性の程度から導かれたものです。薬物の推定体験者数と逮捕者数、起訴率などを見ると、大麻は微妙な位置づけに置かれています。
 誤解を恐れずに言うと、大麻は徹底的に撲滅しなければならないほどの対象ではないが、容認もできない、といったものです。大麻にそれほどの有害性はないことは分かっていても、大麻を認めることによって、薬物規制のこれまでの方針、つまり長年にわたって(規制)薬物は全部危険で、絶対ダメと「臭いものには蓋(ふた)」をしてきたのが一部崩れることになる。そうなると薬物規制全体の信頼性が薄れ、覚せい剤などの取り締まりに支障をきたす、そんな考えだと思われます。
 官僚制度のもとでは、そういう問題については過去の慣例(大麻取り締まり)を同程度に続けていくことになります。

 逮捕された人を裁くのは司法(裁判所)です。この間の大麻事件裁判を見ますと、裁判所は過去の判例を形式的に当てはめて自らの判断を避けているようです。薬物問題は、その当事者はもちろんのこと社会にとっても健康・医療の問題として扱われるべきものであり、その刑罰の重さが妥当なものか人権的にも配慮されるべきですが、司法は行政当局の主導する刑事政策に迎合しているように見受けられます。
 憲法上、司法(裁判所)は立法(国会=政治)や行政(官僚)とは、独立した権力として意思表示をする仕組みになっているのですが、大麻問題に限らず、日本の司法は政治や官僚と軋轢が生じそうな問題について毅然とした姿勢を示せないということが問題視されています。
 裁判の判決では、大麻の規制の不当性を訴えた被告に対し、それは国会の立法裁量に委ねられているという過去の判例を繰り返しています。司法ではなく立法の判断すべき問題だと責任を転嫁しているともいえます。

 国会(立法)では法律が作られます。いまある法律を改正したり、廃止したりするのも国会です。国会を構成しているのは、国民から代表者として選ばれた国会議員(政治家)です。主権者である国民の代表なので、国会は国権の最高機関とされています。
 ところが国会では、大麻について公正な情報がないため、この問題が見えていない状況にあります。本来、薬物問題を管轄している役所である厚生労働省は、大麻について公正な情報を伝えるべきなのですが、前述のようにもともと十分な情報を持っていないのでそれが機能していません。
 また、大麻の規制問題はいまだ少数の人間しか声を上げていないため、内政・外交など多くの問題を抱えている中では、目につきづらいという現状もあります。
 戦後、少なくとも30年以上にわたって、大麻を覚せい剤などと同一視した薬物乱用防止キャンペーンが行われてきたことにより、大麻問題を理性的に議論することがタブーになっているということもあります。政治家の立場からすると、大麻の規制には問題があるということが理解できても、それを取り上げることによって、国民(選挙民)やマスメディアから反発されるのではないかと怯(ひる)んでしまうということがあります。

 取り締まりをしている行政当局はいわば最終責任を司法に丸投げし、その司法は立法に丸投げし、立法に正しい情報を伝えるべき行政はその機能を果たしていない、こんな無責任な構造が浮き彫りになってきました。マスメディアは、大麻=麻薬という誤解や偏見が社会にあるため、それがプレッシャーになって大麻問題を公正に報じることができません。
 このような堂々巡りともいうべき状況は、大麻の善し悪し、有害性の有無といった個別分野の枠を超えて、日本社会全体が抱えている構造的な問題が、大麻の非犯罪化にとって障壁となっているということができます。当然ながら、あまりに大きなレベルの問題は、われわれの手には及びませんが、大麻の非犯罪化をめざして行動する上で、全体的な地図として理解しておきたいと思います。

 

大麻の非犯罪化を実現するために
 ここまで立法、司法、行政、それにマスメディアの状況について述べてきましたが、各分野の担当者と交渉して常々、感じるのは、みながみな最終的には国民世論を意識しているということです。市民の目といってもいいかもしれません。裁判官も、役人も、政治家も、マスメディアの記者も、国民世論の平均的な意識を念頭において、それに沿うような判断を下しているともいえます。
 実は、この国民の意識こそが、三権、それにマスメディアを動かす最も大きな力なのです。そうなると、問題は、巻頭の書き出しに戻ってきます。まず、おかしいことをおかしいと声をあげなければ何もはじまりません。憲法でも思想信条の自由、言論の自由は基本的人権として認められていると書きました。
 大麻の大麻規制の是非をめぐる中心的な論点は、大麻の有害性の有無、その程度問題にありますが、カンナビストは、司法の場でも通用する諸資料や公的機関のデータを揃えてきました。そして今後、司法や行政、立法に働きかけを進めていきます。
 すでに述べましたように日本の立法、司法、行政、それにマスメディアは、火中の栗を拾うのを恐れて大麻問題について新しい見解を出しづらい状況があります。各部門の担当者は、普通の市民は大麻を「乱用薬物」と思っているはずだという意識があって、それに縛られているとも言えます。たとえ大麻の非犯罪化を求める意見に筋が通っていて、実際、大麻には著しい有害性がないということが分かっても、普通の市民の意識とは格差が大きいと思っているわけです。この場合、残念ながら一般市民の意識が遅れている、誤解や偏見があるとしても、そういう現実の方に追従するのが通例です。
 そのとき一番大きな力は、国民の声です。いわばそれが最高のお墨付きと言ってもいいかもしれません。
 誤解を恐れずにいうと、そういう国民の声があれば、立法、司法、行政、それにマスメディアとも、それに圧されたという形で動けるようになります。今の日本社会は、大麻の規制の是非というような問題に関して、立法、司法、行政に特定の人物が影響を及ぼすかというと、それほどでもありません。有名な芸能人や文化人よりも全国各地の普通に暮らしている無名の普通の母親たち、父親たちが積極的に声をあげる方が国に対する影響力は大きいと思われます。
 国民の意識といっても、1億2000万人の国民がいて全体として一つの意識があるわけではないので、具体的には、全国各地で身のまわりの人たちに大麻の問題を説明していくことの積み重ねだと思います。国民の過半数の意識まで変わればと望んでいるわけではありません(もちろん、過半数の意識が変わればそれに越したことはないのですが)。大麻の問題に理解を示し、規制は見直すべきだという一般市民の声がちらほらでも世間で目につくようになれば、それはいま進めている司法、立法、行政への働きかけの大きな援護になります。
 補足しますと、世間で目につくというのは、サブカルチャーやアートの場面ではすでにそういう意見はかなり目についているので、いま求められているのは一般社会、教育機関、公的機関、地元の新聞やテレビ、地方議会、司法関係者などに対してということです(当然ながら、一般の市民の理解を得られるような説明が求められています)。
 法務省への請願も、人権救済申立もそういう行動のはじめの一歩でした。カンナビストは、これからも請願や陳情、署名活動、一般集会、広報活動などを行っていきます。毎年5月に各地で行っているマリファナ・マーチがさらに広がっていくことをめざしています。




※世の中よかれ麻よかれ──江戸時代のことわざ。米も豊作、麻も豊作でありますように、世の中がよくなりますようにとの祈願。