わたしたちは、大麻が自由に楽しめるような社会が望ましいと考えている。ここで少し補足すると、自由といってもなんでも好きなようにやっていいと言っているのではない。わたしたちの主張は、個人(成人)が自分のために使う分の大麻ならば、所持、あるいは栽培していても現在のように「犯罪」として扱い刑事罰で取り締まるのをやめるべきだということである。
このような立場から、わたしたちは「大麻事件」の各裁判の動向には、関心を持っている。最近の幾つかの「大麻事件」裁判では、大麻が多様な使い道のある有用な植物であるという事実、自然の資源として環境問題の改善に役立ち、医薬としても大きな可能性があること等を弁護側が指摘することがあるようだ。新しい視点が出されることで、幅が広がることはいいことだろう。しかし、何が問題の中心かを見誤ってはならないと思う。
わたしたちはそのような視点があることを認めつつも、司法の場でわたしたちの主張が認められるか、どうかの分岐点は、取締当局や検察が主張しているような大麻の有害性を覆すことにあると考えている。
実は、取締当局や検察、あるいは裁判所でも大麻の有害性については、これまでの慣例に基づき、はっきりした根拠がないまま有害であることを前提に判断を下しているというのが現状のようである。
また、過去に於いて大麻取締法が憲法13条(幸福追求権)に違反しているという主張が各地の「大麻事件」の裁判で争われたが、昭和53年以降の下級審判、最高裁の判決では、この主張は認められなかった。その理由は、結局「薬物の有害性が、一定の許容できる限度内にあるということが明確に証明されていない限り、その使用等を禁止したからといって、憲法違反の問題は生じてこない」(『注釈特別刑法〔第八巻〕』伊藤栄樹他、立花書房)というものであった。
このような現状を見ていくと、大麻の「有害性が、一定の許容できる限度内にあるということが明確に証明」できるか、否かが大麻「自由化」の核心点だということが明らかになっているのではないだろうか。
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